1、『ゲド戦記』―「父の殺害」とエディプス的葛藤の解消不可能性
本稿では、「フロイト性理論の再構成―セクシュアリティの解釈学の基礎づけ」で展開されたフロイト理論は前提とされる。
さて、『ゲド戦記』においてよく取りざたされるのは、冒頭に生じる原作には不在の「父殺し」の出来事の挿入であり、その理由が説明されていないことがしばしば槍玉に挙げられる。
だが、フロイトの議論に従えば、この「父殺し」の欲望自体は普遍性を持つものであって、説明を要しない。説明を要するのは、それが現実化するほどに強くなってしまっていることである。
そしてこのことは、物語中盤、主人公アレンがヒロインのテルーに父殺しを告白した場面に続く会話により、十分に説明されている。
アレンは「お父さんにひどいことをされたの?」というテルーに「父は立派な人だよ。ダメなのはぼくの方さ。いつも不安で自信がないんだ。なのに時々自分では抑えられないくらい凶暴になってしまう。自分の中にもう一人自分がいるみたいなんだ」と答える。
この応答が意味するのは、父のあまりの偉大さ故に、エディプス・コンプレクスの克服が前提とするような父との同一化を果たせず、父との比較による自己否定・卑下と、それと反対の方向を向いた、そのような圧倒的な力で全てを独占しているように見える強権的な父への攻撃性の双方が、同時的に亢進する事態である。
この事態の極限的な帰結が父殺しの現実化なのである。ここに近年まれに見る「偉大な父」を持つ監督・宮﨑吾朗の葛藤を見てもよいだろう。
さてフロイト的に言って、父はアンビヴァレンツの対象であり、憎しみの対象であると同時に愛の対象でもある。従ってその殺害は息子に罪の意識と自己否定を植え付けざるを得ない。この罪の意識と自己否定が、本作の主人公アレンの性格と映画の暗い雰囲気の基調をなしている。
このことがはっきり現れているのは、アレンが町で人身売買目的の人さらいからヒロインのテルーを救い出すシーンである。
その場面にたまたま立ち会ったアレンに対し、誘拐団は命が惜しければ立ち去るよう忠告するのだが、罪の意識からくる自己否定に苛まれるアレンは自分にとって命など無価値であるとして捨て身の攻撃を仕掛ける。その命を顧みない気迫に誘拐団は気圧され退散するが、意外なことにテルーはアレンを拒絶して立ち去る。
その理由は後の再会の際に明らかになる。「命を大切に出来ない人なんて嫌いよ」。
私たちの解釈の文脈では、このことは父と同一化して一人前の人間として社会的に承認された存在と成れていないアレン、成れていないどころかまったく正反対に父を殺害し、罪悪感に押しつぶされ国を逃げ出し、社会から放逐された放浪者であるアレンにとり「正常」な性関係を取り結ぶことは不可能であることを示しているとしか解することは出来ない。
ここまでが本作の物語がそこから展開する出発点である。
話を先に進める前に、もしかしたら示唆的かもしれない点を、もう一つ指摘しておきたい。それは国を逃げ出したアレンと偶然に出くわし一緒に旅をすることになった大賢人ハイタカ、アレンの庇護者の立場に立つハイタカが、その大賢人という肩書きの権威性にもかかわらず、流浪の魔法使いとして「父に成れなかった」存在であることが、相当に親しい関係にあることが示唆される女性テナーを登場させ、その辺りの事情を推察させることでこれ見よがしに強調されている点である。
さて次の話に移ろう。出発点が先に示されたものである以上、その結末はもう見えている。すなわち、主人公が父と和解して父に同一化し、ヒロインとカップルを形成し、社会に再統合されることである。
実際、物語の結末において主人公が魔法により封じられていたはずの父の遺品の剣を抜いて見せたことからして、主人公は父と和解しており、ヒロインともカップルとなっていて、罪を償うことで社会に再統合されることを決意している。
本作の物語が一般に失敗だと言われうるとすれば、それはこの結末への移行に説得力がないからだろう。
本編の展開に即すなら、主人公の心的状態は「心の闇」に支配された状態、私たちの読解指針から言えば、それは一種の(自己)破壊的性向、フロイトのいう死の欲動に支配された状態だが、この状態は究極的には悪い魔法使いによって「光の部分」が分離されたことに因るのだという原因の外在化が行われ、ヒロインのテルーの「生命を大事にせよ」という主旨の説教および彼女との真の名の交換によりアレンは光の部分を再統合する。
続く悪の魔法使いとの決闘において、ピンチに陥ったアレンはどういうわけか父の剣を抜くことが出来る。最後の絶体絶命のシーンではテルーが実は竜であったことが明かされて、主人公達は勝利を収めることになる…。
以上から明らかなのは、物語の初期状態が提起した主人公の心的状態の問題とそれに密接に関わる父との関係の問題が迂回され、説明なしに、あるいは原因の外在化による悪しき説明によって処理されているという事態である。これが物語の説得力の欠如を生み出し、それが失敗しているという印象を与える。
かくして結論を述べるとすれば、本作は「父殺し」というエディプス状況の極限的な事態を問題として提示しつつも、それが孕む心的な葛藤を十分に解決しえないままに強引に結末をつけようとした点に失敗があるのであり、だがそれは脚本にして監督の宮﨑吾朗が父との間に抱えている葛藤の未解決という事態をおそらくは反映しているという点で、必然性をもった失敗なのである。
実際このような「反映」を想定しないとすれば、多くの可能性の中からよりにもよって「父殺し」を中心とするプロットが発案され承認された理由が説明不可能なままにとどまるだろう。
2、『コクリコ坂から』—「父」は「息子」に「少女」を贈与する
息子宮﨑吾朗の監督業遂行に反対し、『ゲド戦記』ではまったくノータッチにとどまった父宮﨑駿が脚本をつとめる、宮﨑吾朗監督第二作『コクリコ坂から』を、この『ゲド戦記』に対した父駿が息子吾朗に送ったメッセージとして読み解きたいという欲望は、やはり抗いがたいものがある。
あるいは更に思い切って、その「父殺し」のモチーフの一種トラウマ的な衝撃によって、父駿が送ることを強いられたメッセージとさえ言いたくなってしまう。というのも、本作にあってはある父親像の転換、「近親相姦を禁止」して「父殺し」を誘発してしまうような強圧的で恣意的な原父のごとき父親像の転換が問題になっているように見えるからである。
その転換にあって父親は、女性を独占するのとはまったく反対に、自分の立ち位置を息子に譲り渡し、そうすることによって息子に対して一人の少女を贈与し、性関係を可能ならしめるのである。
ヒロインの少女である「海(あだ名はメル)」は映画の冒頭で朝起き抜けに庭に信号旗を揚げる。主人公の俊は父親と共に乗る船から、それに信号旗で応答する。しかしメルは気づかない。両者の関係が始まるのは、「週刊カルチェラタン」に掲載された、旗を揚げる少女についての俊が書いた詩を、メルが読むことによってである。
ところで後に明らかになるように、この旗はメルが幼い頃に死んだ父が早く帰ってくるようにと毎朝揚げているものであり、父を呼び求める声であって、メルの父親へのエディプス的な固着を明確に表現する。
俊がメルにとって気になる存在となるのは、俊がこの呼び声に誤って応答することによって、そうすることでメルの父の代替物となることによってである。実際、これは続いて説明する物語の展開の文脈で言われていることではあるのだが、俊がメルの父親に似ていることが作中幾度か明言されている。
さて、俊がメルの父親の代替となることでメルの欲望を喚起するとしても、メルは本当のところ父親に固着しているのだから、父親から見れば俊は自分に成り代わりメルを横取りする者であり、父はここで女性を独占して近親相姦を禁止する原父のごとく禁止を発しなければならない。
かくして、作中で生じるのが俊の父親が実はメルの父親と同一人物であり、俊とメルの間の関係は「近親相姦」に他ならないのではないかという疑惑である。
ところで、父がすべての女性を独占する原父ならばいざ知らず、普通の父がもっとも典型的に禁止する近親相姦は母と息子の関係であり、ここで俊にとってそうであるようなメルという兄妹との関係ではない。
とはいえ、ここで「海」がフランス語「la mer」との連想によって「メル」とあだ名されているという事実からして、私たちからすれば、その名に「la mère」、すなわち「母」の名を聞き取らないことは不可能である。ついでに言えば、さらに「海」と「母」との連想-象徴関係も一般的なものとして認めることが出来るだろう。
かくしてこの近親相姦疑惑のうちに、私たちは父への固着というメルの女性的エディプス状況の典型的事例のみならず、俊にとっても母を巡る父との葛藤という典型的エディプス状況を看取することが出来る。
さらに私たちの読解指針にしたがって、ここに宮﨑父子を読み込むならば、息子にとって父が独占しているもの、「母 = メル」は当然アニメーションそのものである。実際、メルのような少女が宮﨑アニメの中核に存在し、宮﨑アニメそのものを表象しているといってもさほど異議は生じないだろう。
いささかこじつけが過ぎただろうか。ともかく次の話に歩を進めよう。
さて、物語の結末をまず見てみると以上の近親相姦疑惑は勘違いであることが判明する。俊とメルの父親は別人であって、かくして近親相姦の禁止から解放された二人は幸福なカップルを形成することとなる。
さて、もしこの事件の顛末を単に外的な出来事の次元で捉えた時に、私たちにとってそれがかなり瑣末なものと見えるとすれば、それはその背後で動いている内的な、つまり心的な論理をこそ捉えなければならないというサインである。
では、近親相姦疑惑に直面して一旦は関係の進展を断念した二人の状況が好転するのはどの時点からだろうか。それはカルチェラタン取り壊し決定をひっくり返すために、東京の理事長のもとにメル・俊・水沼の三人で直訴に赴くところからである。
この直訴は成功し、理事長はカルチェラタンに訪問、その存続を決定するのだが、この訪問を求めるための直訴の場面において実際に起きたことはたった一つだけ、すなわち、メルが父の死の経緯について物語り、父の乗った輸送艦LSTが派手に爆発する朝鮮戦争時の映像の挿入に示されているように、それをありありと再体験(正確には想像)するということだけである。
その帰り道メルは改めて俊に告白する。曰く、俊は亡くなった父が自分の代わりにと私に贈ってくれた人なのであり、兄妹であろうがなかろうが俊のことが好きだというのである。
さて、ここで生じているのは、もちろん、メルによる父の死の受容、父の断念であって、これが様相を一変させる。近親相姦を禁止する父という形象は後退し、父は自分の代わりにメルに性関係を形成可能なパートナーたる俊を贈る。こうしてメルはエディプス状況を抜け出す。
ところで極めて論理的なことに、この時点になって初めて、つまり父が断念されることで母との対立関係が解消されるこの時点になって初めて、メルのもとにアメリカに行っていた大学教員の母親が帰ってくる。
それはさておき本題に戻って、ここに生じた事態を俊の側から見るならば、同じことだが、自分の特権的な立場を排他的なものとして保持し近親相姦を禁止する敵対的で原父的な父のあり方が消え失せ、それの「代わりとなる = 同一化する」ことによってメルとの性関係が可能となるような父のあり方が浮上する。
こういう仕方で父は息子に少女を手渡す。この心的な転換によって既に物語の決着はついているのであって、近親相姦疑惑が勘違いであったことの確認は、この内的な変化の後を追いかけているだけである。
ところで、先に述べたような父の死をめぐるメルの語り一つで、今みてきた父の形象の変化とまったく並行する形で、カルチェラタン騒動の帰趨を決する「学校側 = 権力側」の当事者が、カルチェラタンの徹底的な清掃・改装直後にもかかわらず有無を言わせず取り壊しを決定する「恣意的」な学校当局から、「話の分かる大人」である理事長にあまりにあっけなく変化するという事実は、カルチェラタン騒動は主人公とヒロインをめぐるエディプス的状況の影、その反映に過ぎず、物語の中心は徹頭徹尾、かの家族関係にあることの一つの傍証をなしている。
こうして私たちの議論は実質的に終わりを迎える。それを要約的に繰り返そう。
「父殺し」と「近親相姦の禁止」という「フロイト的、あまりにフロイト的」なテーマ系の存在によって触発された私たちの『ゲド戦記』と『コクリコ坂から』の精神分析的読解は、前者においてエディプス状況の極限的な帰結としての「父殺し」と、その乗り越えの失敗、すなわちエディプス的葛藤の克服の挫折を見いだした。
他方で続く後者にあって展開するのは、父がある意味で禁止する主体としての自らを殺し、エディプス関係を抜け出た状況、娘と息子にとって性関係がとりあえず可能な状況を作り出す運動、自らの位置を息子に譲り渡す継承の運動である。
それは父の側からの歩み寄りの実践であり、『ゲド戦記』で解消不可能だったエディプス的緊張を緩和し無化する。
こうして宮﨑駿の宮﨑吾朗へのアニメの継承、もちろんフロイトなのだから、それは「無意識」の継承なのだが、その継承は幕を閉じることになる。
彼らがおそらくは意識せずにこうした作品を産出するという事実は、私たちにとってフロイト的な無意識の実在の一つの傍証である。
さて、この継承により、二つの作品は対となり一種の完結が作り出される。この後の第三作目で果たして宮﨑吾朗監督がいかなる作品を作るのか。それは父を「継承」した父の古典的な諸作品のようなものなのか、それとも何か別のものなのか。とにもかくにも、二つの作品の内的論理をかく追いかけて来た私たちとしては、この点に注視せざるをえないだろう。
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本稿が背景にしているフロイトの性理論に関しては以下を参照いただけますと幸いです。