見田宗介を読む、『現代社会の理論』の要約・解説を発端に

 本稿はまずもって見田宗介『現代社会の理論』の要約・解説である。しかし、そこからして、この著作後の見田の思想の変転(の論理)をも展望する。それは最新作『現代社会はどこに向かうか―高原の見晴らしを切り開くこと』にまで至る。いわば、後期見田宗介を読む試みである。

 さて、見田は東大駒場で教鞭をとった戦後日本を代表する社会学者である。その代表作の一つとみなしうる本書は、現代社会の歴史的な位置と、その基本的な構造を一望のもとに見晴るかすコンパクトな理論的試みとして、現代社会を考えようとする人にとっては必読の書であるように思う。

1、敗北を抱きしめて―冷戦の終わりのあとに

 さて、本書はソ連崩壊による米ソの冷戦の最終的な終結からしばらく後、1996年に出版されている。

 見田は長らく社会主義・共産主義にシンパシーを抱く立場であったから、この本は、自分もかつては抱いていた理想の敗北を受け止め、それを葬送する書物だと見做すこともできるだろう。

 かくして、見田は資本主義の社会主義に対する勝利の理由を見極めるところから議論を始めていく。資本主義の現代における勝利をそれとして認めながら、そこに孕まれる困難をも見通し、その可能なる克服まで展望する。そういう仕方で本書の議論は展開していく。以下、具体的に見ていこう。

2、現代社会の「光」の側面―「無限性」:情報化と消費化

 本書は「現代社会」を論じる。「現代」とわざわざ銘打つからには、それは「近代社会一般」と区別される特質を持っていなければならない。その特質の根本を見田は「情報化」と「消費化」に見定める。

 出発点は、冷戦において社会主義・共産主義側が依拠した、マルクス主義のいわゆる「資本主義の古典的矛盾」の議論である。

 その議論によれば、「近代」資本主義は、競争を通じて絶えず拡大し続ける「供給(生産)」に対して、「需要(消費)」が過小になってしまうことにより、必然的に定期的な恐慌に陥り、それを回避するには戦争によって「最終需要」を創出するしかない。

 問題は、生産の成長がさしあたりほとんど「無限」であるように見えるのに対して、消費が人間の必要に制限されて「有限」であることである。

 さて、以上は実際に繰り返された恐慌の経験によって、ある時期までは確かに一定の経験的な妥当性を持った仮説であった。しかし、1920年代以降の、政府の公共投資による需要創出などのケインズ主義的な経済管理(管理社会)と、本書にとってより重要なこととしては、1950年代以降の、消費者の必要を超えた、ほとんど無限ともいうべき消費需要の創出(消費社会)により、この困難は乗り越えられた。この二つの方策は需要創出という点で機能的に等価である。

 ここで「情報化」と「消費化」という現代社会の根本特質に戻ることになるのだが、この消費需要の創出という点に注目すると、それを必要の限度を超えた水準で可能にしたのは、デザインと広告という「情報」に支えられた「モード(流行)の論理」である(情報化社会)。つまり、現代社会は、商品のデザインを変え、それを広告で宣伝すること、そうやって「流行」を作り出すことを通じて、実際的な必要以上の消費需要、原理的には「無限」の消費需要を喚起するのである。

 こうして、「現代」資本主義は、情報化に支えられた消費社会化を通じて、「近代」資本主義には必然的だった恐慌と戦争という悲惨な帰結、生産に対する需要の「有限性」の問題を乗り越え、そのなかで私たちは消費を楽しみながら幸福に暮らすことができる。というのも、私たちが消費をするのは、商品が魅力的だからであり、つまり、それが私たちに楽しみと幸せとをもたらすからだからなのだから。

 ここに現代社会の「光」の側面が存する。

 「現代」資本主義が提供する、この幸福、その前提となる自由の魅力の前に、見田の認定するところでは、社会主義は理念として色褪せ、あえなく敗北したのである。冷戦の決着は武力によってついたのではないのだ。

3、「現代社会」の「闇」の側面―「有限性」:環境問題と南北問題

 さて、振り返り的にまとめれば、「現代」資本主義は、ほとんど無限に成長していくように見える「生産」に、かつてはついていけなかった「消費」の有限性を、デザインと広告といった情報による「モード(流行)」の加速によって乗り越え、「生産-消費」のループの速度を無限に向けて高めていく。

 その「内側」には、それこそ「無限」の幸福があるのかもしれないが、このループにもやはり「外側」がある。無限の「生産-消費」の外側には、有限な「自然」が存在するのだ。

 無限の「生産-消費」は、生産の前に大量の自然資源の採取を必要とし、消費の後に大量の廃棄物の処理を必要とする。そして、資源を与える自然の力も、廃棄物を受け止め浄化する自然の力も、「有限」である。

 ここ、この「無限」と「有限」の矛盾に、資源問題と環境問題の根拠がある。「生産-消費」は加速する。そのために資源は早晩使い尽くされ、また地球は生物が住めないほどに廃棄物で汚染されてしまうかもしれないのだ。

 そしてまたこのことから、また別の問題が派生してくる。「自然」が「有限」であるために、「現代」資本主義は、全人類を自らのうちに包摂することはできないのだ。

 すなわち、現在の先進国並みの豊かさを全ての人類が享受しようとしたら、資源はすぐに枯渇してしまうであろうし、また地球の汚染もより一層深刻になるだろう。一部の豊かな先進国と、多くの貧しいいわゆる発展途上国。南北問題の構造である。

 「生産」の無限性に、「消費」の無限性が追いつくことで、現代資本主義の繁栄は生まれた。だが、そこに「自然」の有限性がある限りにおいて、その栄光には限界があり、資源問題・環境問題・南北問題を生み出さざるを得ない。

 ここに現代社会の「闇」の側面があるのだ。

4、現代社会の困難の突破―「消費化」と「情報化」の徹底

 では、この「闇」をどう克服するのか?見田はその方策を、「現代社会」を定義づける二つの動向、「消費化」と「情報化」のある仕方での徹底に求めている。

 見田によれば、これが見田にとって決定的な論点だが、「消費」ということの可能性の中心は、それが自己目的的・自己充足的な行為であることにある。「生産」は「消費」を最終目的とする「手段」的な行為であるが、「消費」はそれ自体が目的であり、自己充足的である。そこにこそ生の充実が存する。

 他方で「情報」ということの本質は、それが「物質ではない」ということにある。「情報」は非物質的な存在なのだ。

 そして見田はこの「消費」と「情報」をクロスさせることを提案する。すなわち、一方で、「情報」は何かのための「手段」と見なされがちだが、それは「消費」が持つ「自己目的性-自己充足性」へともたらされなければならない。

 このことの実質的な意味は「消費」の側から見ることで明らかになる。「消費」は、その現在の形態においては大抵物質的な消費である。消費には大量の物質的資源が必要であり、また消費は大量の物質的な廃棄物を出すのだ。

 ここで「消費」に対して「情報」の本質、その「非物質性」をクロスさせてみよう。「消費」するのが「情報」であれば、それは「物質」を必要とせず、また「物質」的な廃棄物も出さないのではないか。

 ここで見田が提出している例は「ココア・パフ」なる商品である。これは私たちの身近なところでいえば、一種のシリアル的なものを想像すればよく、小麦粉にちょっとしたフレーバーをつけて、ポップなパッケージに詰めることで、もとの小麦の何十倍もの値段で売られているものである。

 これを実質以上の値段でモノを売るぼったくりと見做すこともできるけれども、また別の見方も可能である。それは単に小麦を売るのと比べた場合、ポップなイメージづけという「情報」の活用によって、使用する物質的な資源と出す廃棄物の量はほぼ同じに抑えたまま、首尾よく何十倍もの売り上げをあげていると見ることもできる。情報を用いることで、自然を酷使せずに、「生産-消費」の成長を可能にしているのだ。

5、本書のまとめ―「情報」が開く「無限空間」へ

 ここに本書における見田の最終的な希望があるようだ。「現代社会」は、デザインと広告という仕方での情報の活用により、「資本主義の古典的矛盾」を生み出す「消費」の有限性を、その無限性へと向けて突破した。

 だが、そこに成立する無限の「成長-消費」サイクルには、続いて「自然」の有限性が立ちはだかる。それが現代社会を存続不可能にする資源問題と環境問題を生み出し、南北問題の乗り越え不可能な条件ともなる。資源が限られているために、みなが豊かな生活を送ることはできないのだ。

 では、どうするのか。見田は「情報」の「非物質性」に希望を見いだす。情報は物質ではなく、したがって、物質的な資源もさほど必要ないし、物質的な廃棄物もさほど出さない。もし、私たちが情報を消費するならば、私たちは「自然」の有限性の問題を回避しながら、「自己目的的-自己充足的」な消費を無限に楽しみ、資本主義の無限の「生産-消費」サイクルを支えることもできるのだ。

 情報は、物質の彼方に、もう一つの無限空間を開くのである。

 ある部分は冗談で、だが、その後の見田の思考の展開も視野に入れつつ、半ば以上は本気でいうのだが、2018年に生きる私たちには、この議論は例えば「スマホゲーム」の礼賛に見えるかもしれない。「スマホゲーム」でユーザーがキャラクターのカード等を得るために回す「ガチャ」は、射幸心や承認欲求をも同時に煽ることで、「無限」ともいえる利益を生み出す、まさに「非物質的」な「情報」なのだから。

6、見田宗介、その後―無限を捨て、有限を引き受けること

 前節の最後で一種の冗談として述べたことが、半ば以上は本気なのは、実際のところ、この種の問題への応答として、見田のその後の思考の転回が生じているといっても、そこまで間違いではないように思われるからである。

 『現代社会の理論』の主題は、最初に述べた通り、明らかに社会主義に対する資本主義の勝利という現実を受け止めることにある。資本主義の社勝利は、その消費社会化による「資本主義の古典的矛盾」の克服と、消費ということ自体の魅力によって可能とされたのだが、この消費社会化自体は、さらに「情報化」によって支えられ、また非物質的なものとしての「情報」の消費に徹することにより、自らの問題性を乗り越えうる。

 この議論の構図において重要な要素は「資本主義」「消費」「情報」だが、このうち見田が本当にコミットしているのは、自己充足的なものとしての「消費」だけである。

 なぜか。ここで大枠で本書と同じ時期に属する著作『時間の比較社会学』を紐解こう。その議論のほんの一端だけを取り出すなら、「死とニヒリズム」の問題に対決した同書では、何らかの「自己目的的-自己充足的」な行為が見出されなければならなかった。

 現在の行為は何かに対する「手段」であり、その「目的」は将来にあるという発想では、人間的な生の最後には死が待ち構えている以上、結局すべてに意味はないというニヒリズムが必至だからである。消費の本質が「自己充足的」なものであるとすれば、本質的な意味での「消費」だけが私たちをニヒリズムから救ってくれるのである。

 この「消費」の原義への評価を通じて、見田は『現代社会の理論』で資本主義の勝利を受け止める。それは「消費」に支えられているのだから。

 だが、冷戦の終結という、資本主義の勝利という劇的瞬間が遠のくにつれ、視点は資本主義の優位性の受け止めよりは、むしろ、社会主義というライバルを失った資本主義の問題性そのものに移っていくだろう。

 「資本主義」の枠内、その生産主義の内側で考えるから、「消費」は生産の成長に追い付くようなものでなければならず、またその成長が自然を破壊しないためには、「情報」に依拠しなければならない。

 だが、2000年代以降の見田にとって、資本主義の勝利の評価は、先に論じた通り、もはや問題ではない。「資本主義」「消費」「情報」のうち、「消費」だけを救い出し、後の二つは捨てることができるのだ。

 いや、むしろ、捨てなければならない。というのも、資本主義的な成長主義の枠内で考えるから、成長する「生産-消費」を持ちこたえるために情報化が必要になるわけだが、この情報化によって、生のバーチャル化が進み、その現実性が失われつつあるからである。

 さて、これが実際、見田の、2000年代を代表する事件、加藤智大による秋葉原の大量殺人事件の読みである。加藤は情報化によってバーチャル化した世界のなかで、自らを承認してくれる現実的な他者の「まなざし」を見失ってしまったのである(『現代社会はどこに向かうか 生きるリアリティの崩壊と再生』)。

 こうして、『現代社会の理論』のなかで結び合わされた「資本主義」「消費」「情報」の三者は二つの陣営に分割される。本当に肯定されるべき「消費」、生の端的な享受と、それを破壊する「資本主義」と「情報」の対である。

 「資本主義」は成長し続けることを必要とし、それが自然の有限性と折り合うためには「情報」に依拠せざるを得ないが、そうすると現実が「バーチャル化」され、生の現実性が失われる。現実性なき生を端的に享受することはできない。本質的な意味での「消費」は失われる。「スマホゲーム」に興じている場合ではないのだ。

 こうして見田は「資本主義」の根幹にある「成長主義」とでもいうべきものを放棄しなければならないという立場にいたる。

 もう成長は十分である。いまや無限の成長を必要とする生のあり方を刷新し、情報が開く「無限空間」をめがけるのではなく、「有限性」を受け入れるべきときだ。生の端的な享受のうちに生きるべきなのだ。

 言い換えれば、私たちはもう坂を登り切ったのである。あとはそこに広がる「高原の見晴らしを切り開くこと」だけが問題なのだ。こうして私たちは見田の最新作『現代社会はどこに向かうか―高原の見晴らしを切り開くこと』に到達する。

 見田はいう。原初の共同体がその外に開け、そこから商業と都市という道を通って、成長の道を駆け上がり始めたとき、有限な共同体の外部に広がる「無限」に持ちこたえるため、原初の哲学と世界宗教たちが生まれた。これがいわゆる「軸の時代」である。

 いまや、私たちは坂を登り終え、「高原」にいる。いまや課題は「有限性」を引き受けることである。このことのために思想の転回が果たされなければならない。私たちは「軸の時代Ⅱ」に生きているのである。少なくとも見田に従えば、そういうことになる。

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