ダーウィン『種の起源』要約・考察—「自然淘汰」と「多様性」について

 ダーウィンの『種の起源』について、(1)その中心論点、いわゆる「自然淘汰」による「進化論」を極々簡単に要約した上で、(2)私なりに興味深い論点について、つまり、(ⅰ)ダーウィンによる「性淘汰」の位置づけと、(ⅱ)ダーウィンの進化論的発想を「人間社会」に応用する際に考慮すべきことについて、簡単に考察を行う。

 おそらく、本稿の中心的な関心は「「自然淘汰」と「多様性」について」とでもまとめられるだろう。私はダーウィンの進化論を「多様性」を肯定的に評価するものとして読みたいと思うのだ。

1、「自然淘汰説」による「進化論」

 よく知られている通り、この『種の起源』によって、ダーウィンは現在「進化論」と呼ばれているものの原型となる議論を提出し、それまで通説であった「創造説」を覆した。

 「創造説」とは、現在存在する生物はそれぞれの環境に適応できるように神が「創造」したものだとする説であり、これによれば生物は神が創りたもうた本質のまま変化することはない。人間は神の似姿として作られ、ずっと昔から変わらず人間なのである。

 それに対して「自然淘汰説」を採用するダーウィン流の「進化論」では、生物は究極的には一つの原始生物から(神の意図的な創造とは違って)無目的な偶発的過程を通じて進化したと考える。

 すなわち、生物は指数関数的に増加するため、「生存闘争」が必然的なのであり、何らかの原因による変異によって結果として生存に有利な性質を与えられた個体だけが生き延びることができる。

 その個体の子孫には遺伝を通じてその有利だった性質が受け継がれることになるわけで、結果としてある種の性質をもったものだけが栄存続していく。これが「自然淘汰」だ。

 ここで「生存闘争」「自然淘汰」といっても、その闘争・淘汰過程は、それこそ学校の試験や営業成績のごとき「一軸」の競争ではない点に注意をする必要がある。もしそうだとしたら、世界にはたった一種の「さいきょうのせいぶつ」しか存在しないことになるだろう。

 しかるに、ダーウィンの眼目はまったく反対だった。というのも、彼の目標は、眼前に広がる否定しえない生命の「多様性」が、「創造説」ではなく、「進化論」によってこそ上手く説明されることを示すことにあったからである。

 では、なぜ、さまざまな要因による「変異」と「生存闘争・自然淘汰」によって、生命の多様性が説明できるのか。もちろん、一つには生物が適応するべき気候等の生物外的環境が多様だということもあるが、生物相互の関係を重視するダーウィンは別の説明も用意している。

 曰く、生物は互いに異なれば異なるほど、資源に関していわば棲み分けをしたり、また実際にそれぞれ別の場所に移住したりできるようになる。それは、それぞれの個体数が増えることを帰結し、その結果として、その種に生じる「変異」をも増加させることで、環境の変化を乗り越えて、子孫を存続させる可能性を高めることができるのである。

 これを、ある特定の種に注目していえば、「いかなる種でも、変異した子孫は構造を多様化すればするほどうまく生存できる可能性が高くなり、他の生物が占めている場所に侵入できるようになる」(上 208頁)のだ。

 すなわち、このような「多様化」こそが自然淘汰の過程において有利だとみなす構想により、ダーウィンは生命の多様性を説明できると考えたのだ。

 そして、このことはとりもなおさず、「種の存続」という観点から見れば、ダーウィニズムは「一元的な競争の奨励」ではなく、むしろ反対に可能なかぎりの「多様性の肯定」であることも意味しているのである。

 私としては、ダーウィン進化論は生物のめまぐるしい多様性を説明するための理論であり、それゆえに「多様化」こそが有利であるという議論を自らのうちに組み込んでいる点に、ダーウィンの議論のポイントを見てとりたいと思うのだ。

2、短い考察

 続いて、ダーウィンの議論について気になる点につき、簡単に議論をしておこう。すなわち、(ⅰ)ダーウィンによる「性淘汰」の位置づけと、(ⅱ)ダーウィンの進化論的発想を「人間社会」に応用する際に最低限考慮すべきこと、である。

2-1、「性淘汰」と「自然淘汰」との関係性

 ダーウィンは生存闘争に関わる「自然淘汰」に加えて、雄の雌をめぐる闘争として「性淘汰」を導入している。注意するべきは「性淘汰」は「自然淘汰」の一部として位置付けられているということである。

 すなわち、第一に、非常に筋の通ったことだが、ダーウィンは「性淘汰」を、まずもって雄と雌の形質に違いがある場合について、そのオスとメスの形質の違いを説明するべきものとして提出している。

 ダーウィンとしては、雌雄に関わらず全ての個体が全般的な「自然淘汰」に晒されるわけで、そのうち性差に関わる部分こそが「性淘汰」で説明されるべきなのである。

 そして第二に、ダーウィンによれば「性淘汰」は「自然淘汰」一般よりも「厳しいものではない」(上 165頁)ということである。というのも、それは自然淘汰一般と違って「死をもたらすわけではなく、好まれない雄は子孫をあまり残せないだけだから」(上 270頁)である。

 ここから帰結する興味深い論点だが、ダーウィンによれば、このためにこそ二次性徴に関わる特徴は個体差が大きいのだという。それは生死に直結するものではないため、同じ種でも大きなバリエーションが許されているわけだ(上 270頁)。

 それにしても、「性淘汰」とその他の「自然淘汰」との関係は、少し考えてみると難しい問題を提起する。進化理論的にはもう解決済みの問題なのかもしれないが、この点について、さしあたり『種の起源』の枠内で考えてみたい。

 まず、先にみたダーウィンの言葉からも分かる通り、「自然淘汰」全般の方が厳しい原理である。つまり、まず生き残らなければ「性淘汰」もなにもないのだ。その意味で「自然淘汰」を生き残ることが「性淘汰」の前提となる。

 では、他の「自然淘汰」の結果に対して、「性淘汰」はどのような関係に立つのか。「性淘汰」とは、生き残った雄も、雌に選ばれなければ子孫を残せないということである。

 ここで一つには「性淘汰」は「自然淘汰」を促進するという関係がありうる。ダーウィンも言うように「多くの動物では、最も壮健で最も適応している雄に最大数の子孫を保証する性淘汰が働くことで、通常の選抜を補助することもあるだろう」(上 225頁)。

 とはいえ、その他の「自然淘汰」とはほとんど関係ない方向への発展も「性淘汰」は促しうるようだ。すなわち、「多くの場合、勝敗を決するのは全般的な頑健さではなく、雄独特の武器を備えているかどうかである。角のない雄ジカや蹴爪のない雄鷄が子孫を残せる可能性は低い」(上 165頁)。

 「種」の観点から見れば、これらはいわば「内輪揉め」たる雄同士の戦いに主に役立つ機能だが、こういったものであれば、「自然淘汰」一般のうえでも役立つ可能性もないではないだろう。

 他方、鳥の雄が雌を惹きつけルための囀りや派手な羽となると、話は変わってくる。「雌鳥が自分たちの美の基準に従って囀りや羽色の最も美しい雄を何千世代もかけて選抜し、著しい結果をもたらす可能性を疑う理由は見当たらない」(上 167頁)。

 囀りや派手な羽は「自然淘汰」一般にはおそらく決して役に立たないだろう。それはダーウィンがここで「美の基準」と名指さなければならなかったものに即して選抜され、進化しているように見える。

 こういった「性淘汰」による特性が、自然淘汰に対して中立的なものであればよいが、しばしば、自然淘汰上、不利になるような特性もあるようだ。例えば、派手すぎる羽は外敵にも見つかりやすくなることがありうる。

 とすると、以下のように整理できそうだ。基本的には性淘汰は自然淘汰を「補助」する。というのも、自然淘汰的に不利な個体を性淘汰で選抜するような種は、明らかに存続しにくいのだから。あるいは別のレベルでいえば、そのような選好を持つ雌(の子孫の雌)は淘汰されるはずだからである。

 他方で、自然淘汰に関して中立的な特性が性淘汰を通じて発達させられることがあるようである。雌による選抜には、単に自然淘汰的に有利かどうかというのとは、また別種の原理、一種の「美の基準」のがあるようなのだ。

 このことはさらに自然淘汰的には不利にもなりうる特性を性淘汰が育むことにもつながっていくだろう。ただ、それはその種がいわば生態学的地位を確立して、自然淘汰上の淘汰圧が弱まっているという、一種の「余裕」を前提としているとはいえるだろう。

 「余裕」がない状況では、そのような不利な特性を性淘汰が選抜したとして、その子孫が自然淘汰を生き延びられず、その特性は後に残らないはずだからである。

 それにしても、自然淘汰の観点からは、生物は一般に多様になればなるほど有利ではあった。性淘汰の観点ではどうなのだろうか。それは進化の方向を一方向化する効果を持つのか(ダーウィンは「まだら色をした雄クジャクがすべての雌のクジャクの気をひいた」(上167頁)事例を報告している)。

 とすると、それは多様性によってより確実になる「種の存続」という観点からすると、一定の問題性を孕むことになりそうである。もちろん、「一定の」だが。というのも、例えば、クジャクは生き残っているからであり、それは彼らの性淘汰に致命的な問題がなかったことを意味しているからである。

2-2、「進化論」をどう「社会」に応用するか

 さて、続いて「進化論」を「社会」に応用する場合に生じる諸問題、あるいは、それをする際に最低限考慮しなくてはならないことについて考えよう。

 まず、「自然淘汰説」的な「進化論」を社会に応用して、「優勝劣敗が自然の摂理であり、進化の原動力だ、競争に負けた弱者は滅べ!」という風にいうことは端的に誤りであることを見ておこう。

 もちろん、こういうときに想定されている「競争」が、自然環境や他のあらゆる生物、さらに他の社会集団の一切をも含む広義の「環境」について、現在のみならず未来まで、すべて考慮した上でのものであれば、(倫理的にはどうあれ)進化論的には問題ないだろう。

 ただ、実際はこの種の言明が「進化論的」にも問題なのは、それが実際は上に述べたような意味での全環境を考慮したものではなく、ある限定された環境での「競争」を想定して発せられているからである。

 以下のような架空の事例を想定してみよう。ある種の原始部族はバッファローを食べるのが大好きだった。だから、彼らは学校を作り、バッファローを狩ることばかり教えた。

 全ての若い男児は、バッファロー高校でバッファロー狩りについて切磋琢磨し、バッファロー大学入学のための実演試験を目標に、バッファロー狩りの受験勉強に励んだ。

 バッファロー大学には試験で上位半分の男児しか合格しなかったのだが、そこで部族長は不合格者たちに宣告した、「自然の世界は優勝劣敗、バッファローも狩れない奴らは、我が村には不要だ。優秀な奴だけを残し、もっと我々を優秀にするために、お前らにはこの村を去ってもらう」。

 さて、このバッファロー村はしばらくの間はバッファロー狩りエリートたちの活躍もあって、豊富なバッファローの肉を存分に楽しんだ。

 しかし、乱獲の結果として、バッファローは絶滅、他の食料獲得手段をもはや知らない村は飢饉に見舞われる。実は追放された若者たちの中に、バッファロー狩りには専心できなくとも、ひょっとすると漁労や農耕への志向や適性やアイディアを持っていた人々もいたかもしれない…。

 この寓話から明らかなように、「種の存続」という観点から見れば、ダーウィンも述べた通りに「多様性」こそが重要なのであり、ある限定された「競争」の観点から勝敗を決め、その結果を正当化するのに「進化論」をもってすることは端的に誤りであり、種の存続にとって危険な発想ですらあるのだ。

 さて、ここで別の論点に移ると、人間社会に「進化論」の発想を適用する際に考えるべきこととして、おそらく次の二点がある。

 それは「種の存続」を、いわば「社会の存続」という観点に置き換えるべきであるということであり、また「遺伝子」ではなく、象徴的なものから技術的なものを含む、広い意味での「文化」に焦点を当てるべきだということである。

 この二つのことは密接に関係している。動物一般と人間との違いを考えた時、やはり一番大きいのは人間の行動は動物に比べて非常に柔軟性に富むということである。そして、それは「言語」に発する「文化」が大きな役割を果たしている。

 そして、他の動物の場合は「遺伝子」を通じて性質が伝達されていき、その「遺伝子」が十分異なれば「種」が異なるわけだが、人間の場合は「文化」を通じて性質が伝達される面が肥大化し、「文化」が十分異なることでそれぞれの「社会」が区別されるのである。

 おそらく、人類の歴史の初期段階を考えれば、さまざまな部族的な集団がおり、さまざまな文化を持って、それぞれの社会を営んでいたのだが、そのうちで他の動物を含む広い意味での自然環境、そして他の人間集団との関係において、結果として有利となるような文化を持っていた社会だけが生き残ったのであり、そういった文化群こそがおそらくは私たちに伝わってきているのだ。

 そして、ダーウィンが「種の存続」に関して多様性の意義を強調したように、例外的状況もあるにせよ、一般的にいえば、「社会」の存続を考える上でも、あるいはもっと大きく視野をとって、「人類」の存続を考える上でも、「多様性」を保つということが大きな重要性を持つはずなのである。

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