社会的ヒエラルキーの理論—あるいは、「絶対的」革命の可能性

 本稿は、社会的ヒエラルキーの本質を問うために、ルーマンの「コミュニケーション・メディア」論を援用したものである。第0節で、この「社会的ヒエラルキー」なる問題の広がりを確認するために、さまざまな書籍から多様な引用をして、その問題領域をイメージしたのち、本編に入っていく。

 この引用集を読むのが面倒だと感じる場合、第1節から読んでも全く問題はない。

0、引用集―本探求の基本的問題意識とその精神の規定のために

中島義道『差別感情の哲学』(講談社学術文庫)より

 特定の社会において、プラスの価値とマイナスの価値は―その揺らぎも認めたうえで―ほぼ客観的に決まっている。このことをラカンは「欲望とは他人の欲望である」という言葉によって表した。われわれは、他人が欲しがるものを欲しがるのである。
 現代日本に限定しても、学力、学歴、肉体的魅力、政治的権力、芸術的才能、育ちのよさ、社会的地位、金銭的豊かさなど、プラスの価値はほぼ客観的に決まっていて、多くの人は「一定の決まった価値あるもの」を欲しがるのだ。(…)
 われわれは、一定の決まった価値あるものを欲しがるという点をごまかしてはならない。この点をしっかり見ようとする眼こそ、差別をしっかり見ようとする眼である。世の中の価値がすべて相対的かつ主観的であるとしたら、生きるのはどんなに楽なことであろう。そして、どんなに味気なくつまらないことであろう。(p33-34)

 (欧米型)近代社会の残酷さは、「個人主義」という名のもとに、各個人の知的・肉体的能力の差異を認めたうえで、フェアな戦いを要求することである。フェアに戦えば、もともと能力が優れている者が勝つこと、能力の優れていない者が負けることは当たり前であるが、あらゆる差別に対して神経を尖らせながら、こうした能力差別については問題提起しない。
 しかも、負けた者、成果を出せない者が、自分の能力のないことを理由にすることさえ、許されないのが実情である。「その前に、きみは努力したのか?」という問いがいつも控えている。そして、―本当のところ誰も信じていないのに―努力すれば必ず報われるという神話がまかり通っている。
 これは、考えれば考えるほど残酷な事態である。不美人がどんなに努力しても美人には太刀打ちできないし、鈍才がどんなに努力しても秀才にはかなわない。しかし、それを知りながら、恋愛闘争において、入学試験闘争において、それを理由にすることがほぼ禁じられているのだ。それを理由にすること、そのことが「負け犬」とみなされるのだ。たとえそうであっても、「努力せよ!」という鞭の音が背後から聞こえてくるのだ。じつは、各人間の生まれつきの肉体的・知的格差(「人間的能力格差」と言えるであろう)は、火を見るより明らかなのに、それを不可思議な仕方で見えないようにして、みな取りつかれたように「努力、努力」という掛け声だけを発するのである。
 こうした残酷な状況を子供達はすでにからだの底から学んでいる。その岩のような欺瞞の前に身をすくませている。Aちゃんは目が覚めるようにかわいくて明るくそのうえ成績もいいのに、私はブスで暗くて頭も悪い。みんなそれを知って、Aちゃんをちやほやし、私から顔を背ける。それなのに、私は不満を訴えてはならないのだ。訴えた瞬間にみんなから腹を抱えて笑われるのだ。そして、この格差が死ぬまで続くのである。それなのに、私はこれを問題にしてはならないのである。(p161-162)

雨宮まみ『女子をこじらせて』(ポット出版)より

 じゃあ高校は楽しかったのかというと、そうではなかった。むしろ高校のほうが精神的にはキツかった。(…)
 高校の階級は「学力」と「モテ」の二つの階級で、その二つは、学力のほうは「大学進学」につながるし、「モテ」のほうは校内だろうが校外だろうがかわいい女の子の基準は変わらないので、学校内だけの問題ではないわけです。(p26)

 受験に力を入れている進学校の中は、ハードな競争社会です。点数で先生から待遇を差別されたりはしないものの、生徒の間では差がはっきりとわかっている。その上、モテるとかモテないとか、かわいいとかかわいくないとかも、見ればはっきりわかります。制服にすっぴんですから、演出でごまかす術もない。いくら人は平等だ、差別はよくないといっても、そこにある明らかな差を意識せずにいられる10代の人間がどれだけいるでしょうか。私がその中で劣等感を感じずにはいられなかったように、上に立つ人間も自分の優位を感じずにはいられなかったのだと思います。 (p37)

夏目漱石『明暗』(新潮文庫)より

(場面説明:すでに結婚している「お延」が育ての親である「叔母」のもとに遊びに来ている。叔母の実の娘で未だ独身の「継子」に見合い話が持ち上がったのだが、その前段階として先日、「継子」と相手を含む大人数での会食(という名目のもとでの顔合わせ)が行われ、そこに「お延」も目ざとい人、したがって男を見る目がある人物という体で叔母側から招待されていた。)

(お延)「でも継子さんは仕合せね。あたしみたいに心配性でないから」
(叔母)「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
(お延)「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
(叔母)「そりゃお前と継とは…」
 中途で止めた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気の付かなかった或物に、突然ぶつかったような動悸がしたからである。
(お延)「昨日の見合に引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
 お延の頭に石火のようなこの暗示が閃いた時、彼女の意志も平常より倍以上の力をもって彼女に逼った。彼女は遂に自分を抑え付けた。どんな色をも顔に現さなかった。
(お延)「継子さんは得な方ね。誰にでも好かれるんだから」
(叔母)「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々だからね。あんな馬鹿でも…」(p195-196)

岩田靖夫『よく生きる』(ちくま新書)より

 人生の不思議な点は、自分を強くして、自分を守って、自分が傷つかないようにいつも用心しているような人に、心を開く人はいない、ということです。輝くような才能で凡人を見下しているような人、全然失敗しない人、まったく弱点を見せない人と、友達になろうという気は起こらないでしょう。人間は強くなればなるほど孤独になるのです。力を持てば持つほど自己防衛という檻の中に閉じ込められて、他人との本当の交わりを失っていくのです。これが人生の不思議なところです。だから、他者と本当に交わりたければ、自分を守らないことが大事です。自分をさらけ出すことが大事です。自分の弱点をありのままに隠さないで生きることが大事です。(p34)

 ところで、ここには、本当はもっと非常に深いことがあるのです。それは、人間は強ければ強いほどいいと皆は思っているけれど、実はそうではないのだ、ということです。人間は弱ければ弱いほど本質的な意味ではいいのです。そのことが分かるまでには、すごくたいへんな人生の経験が必要です。自滅寸前まで行かなければ分からない。しかし、弱ければなぜいいか。それは、人間とは皆、能力とか、体力とか、美貌とか、社会的な地位とか、もうちょっと程度が下れば財産とか、みんなそういう力で武装しているわけです。そういう力で人を引きつけようとしています。
 そのときに、他者は、その人の力に引かれて、その人の力を利用しようとして近づいてくるかも知れないけれど、その力がなくなってしまえば、もうその人は見棄てられてしまうでしょう。その人自身が問題ではなかったからです。しかし、始めから何も持っていなければ、お金もないし、社会的地位もないし、能力もないし、容色もないし、なんの取り柄もなければ、さっきの宮沢賢治の「よだか」みたいに、醜くてよたよたしていれば、誰も近づいて来ないでしょう。誰も近づいて来ないけれども、もしも誰かが近づいてきたとすれば、それは、何か自分が身につけた様々な衣装のために近づいてきたのではなくて、その人自身が問題だから近づいてきたのです。かれはその人と付き合ってくれる人なのです。
 その時に、はじめて、人間は本当に人間と交わるということが起こる。なにも無くなって裸の弱者になったときに、下の方に下がって下がって最低の弱者になってしまった時に、無力なデクノボウになってしまった時に、人間は本当にありのままの人と交わることができる。だから、弱者と弱者の間に本当の人間の交わりが起こりうる。本当の愛が生まれうる。それが人間の本当の喜びです。(p54-55)

ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮文庫)より

「彼女はこの(ぼくの)長広舌から、心から愛している女性がいつも真先に理解することを、つまり、ぼく自身が不幸なのだということを理解したのだ」

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』より

 たとえば僕の兄貴たちは二人とも東大法学部で、その沢山の友達たちもぼくはよく知っているのだが、こういう人たちを簡単に「ああ、あれか」(あれのところにはいやったらしいパワー・エリートでも立身出世主義者でもなんでも入れていいよ)と一括して極めつけることは、少なくともぼくにはできないように思うわけだ。それに、たとえばぼくは二年生の時、ぼくが特に好きな下の兄貴に、悪名高い法学部は要するに何をやっているのかときいたことがあるけれど、彼はちょっと考えたあとで、「なんでもそうだが、要するにみんなを幸福にするにはどうしたらいいのかを考えているんだよ、全員がとは言わないが。」とえらく真面目に答えたものだ。そして本を二冊貸してくれたのだが、一冊は法哲学の本、もう一冊はガリ版ずりの思想史の講義プリントで、ぼくはこれには相当にまいってしまって夢中で読んだものだ。そしてちょうどそのすぐあとで、ぼくはそのすごい思想史の講義をしている教授[引用者注:丸山真男がモデル]に偶然お会いした。
 おととしの初夏の夕方のことで、ぼくは下の兄貴と二人で銀座を歩いていたのだが、そしたらバッタリとその先生に出会ったのだ。先生は「やあ、やあ」なんて言ってぼくたちを気軽にお茶に誘って下さったのだが、それから話が次々とはずんで、食事にお酒にと席を変えながらとうとう真夜中すぎまで続いてしまった 。もちろんぼくはほとんどそばで静かに黙って聞いていただけなのだが、ほんとうになんていうか、この時ぼくはほんとうにいろいろなことを感じそして考えてしまった。どう言ったらいいのだろう、たとえばぼくは、それまでにもいろいろな本を読んだり考えたり、ぼくの好きな下の兄貴なんかを見ながら、(これだけは笑わないで聞いて欲しいのだが )たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか、といったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど、その夜ぼくたちを(というよりもちろん兄貴を)相手に、 「ほんとうにこうやってダベっているのは楽しいですね。」なんて言っていつまでも楽しそうに話し続けられるその素晴しい先生を見ながら、ぼくは(すごく生意気みたいだが )ぼくのその考え方が正しいのだということを、なんというかそれこそ目の前が明るくなるような思いで感じとったのだ。そして、それと同時にぼくがしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。つまりその先生と話していると、このぼくまでがそのちっちゃな精神の翼みたいなのをぼくなりに一生懸命拡げてとびまわり出すような、そんな生き生きとした歓びがあったんだ。

庄司薫『ぼくの大好きな青髭』より

 「それならどうしてこんなことに、ってみんなが思うんでしょう?」と彼女は言った。「あたしにも分らないのよ。葦舟を成功させようって私は死にもの狂いだった、それは確かなの。だって、私みたいな馬鹿で弱い子を助けようって始めたわけでしょう?でも、無理だってことも分ってたの。私には贅沢すぎるって。あたしは馬鹿で、勉強が嫌いで、才能もないし、だからあたしみたいなのが生きていくには、おとなしくお行儀よくしている他ないって、よく分ってたのね。だって、人間が好き勝手に生きるってことは、頭がよかったり力があったり才能があったりする人にだけ許される贅沢なんでしょう?そうじゃない人は、周りの言うことをよくきいておとなしくしている他ないんでしょう?人間はみんな同じだなんて嘘で、自由に生きる資格のある力のある人と、一所懸命おとなしくしていてそれでやっと生きていける人とがあるんでしょう?」
 ぼくは自分の中に、たとえ形だけでもとにかく一言反論をさしはさまなくてはいけないと思う何かを、そしてでもその一方では、その何かが実は極めて無責任で陳腐なものであると思う別な何かを、同時に感じとって黙りこんでいた 。

1、はじめに―本稿の課題と構成

 本稿の目的は、私がさしあたり「社会的ヒエラルキー」と名指したい私たちの生のある基本的現象に一つの理論的解明1)「理論的」とはどういうことだろうか。ある知人の示唆によりながら言えば、理論の理論性とは、それが別個の事例の間に何らかの構造的共通性を見出し、それまでは関係ないと思われていた諸事例の間に並行関係と比較可能性を打ち立てるということのうちに存している。この厳密な意味で本稿は理論的解明でありたいと思っている。の試みを与えることである。

 本稿は以下のように構成される。第2節「社会的ヒエラルキーとは何か?」では、「社会的ヒエラルキー」のさしあたりの定義によって以下の展開への出発点が与えられる。

 第3節「社会的ヒエラルキーの理論―ルーマンの視座から」は、以上で定義された社会的ヒエラルキーがそこに根拠づけられている社会的事実を捉えるための理論的基礎をルーマン社会学のある基本的部分を援用することによって確保する。そのことを通じて「社会的ヒエラルキー」がいかに厳密な意味で「社会的」であるかが明らかにされるだろう(今回は第3節までしか展開できなかった)。

 第4節「社会的ヒエラルキーの諸現象」では、社会的ヒエラルキーの現象形態、すなわち、それが私たちの感情とコミュニケーションにもたらす諸効果が詳述される。その果てに私たちは社会関係の一つの可能性の条件を―ということは、その裏面として一つの不可能性の条件をも―新たな視座で発見することになるだろう。

 第5節「社会的ヒエラルキーの倫理学」は、このような社会的ヒエラルキーの存立の中で、つまり、私のお気に入りの表現を用いるならば、「市民社会「という」戦争」2)これは私が夏目漱石の『明暗』を一言で評するために作ったフレーズである。漱石はこの作品の中で主人公夫妻と主人公の妹であるお秀との口論を「戦争」と名指しているのだが、この語の意味は徹底的に重く取られるべきである。というのは、『明暗』は市民社会内部に張り巡らされたヒエラルキー的な対立軸をめぐる戦い、まさしく「戦争」を描き出したものとして読めるからである。すなわち、金をめぐっては主人公の津田と小林の対立があり、美をめぐっては津田の妻お延とその従姉妹である継子および津田の妹のお秀との対立があり、さらに知性をめぐっては津田とお秀、お延と継子、お延とお秀の間に対立がある。この諸々の軸をめぐる激突の中で各々が自らの優位を確保しようとすることが「市民社会「という」戦争」の内実であり、漱石は「戦争」の語を印象的に用いることで、いまここに、まさに私たちのもとに「も」ある—というのは、当時は第一次大戦の真っ最中だからであるが—「戦争」を名指そうとしたのである。の中で「君たちはどう生きるのか?」という問いを考える試みの第一歩が踏み出されることになる。

2、社会的ヒエラルキーとは何か?

 社会的ヒエラルキーとは何か。ヒエラルキーとは階層的な上下関係を名指す言葉である。とすれば、私たちは社会的ヒエラルキーについて以下のように定義することができるだろう。

 すなわち、「社会的ヒエラルキーとは、何らかの事実的差異に関して「上下 = 優劣 = 勝敗」という価値付けが生じ、それが全社会的に共有され、人が自らを評価し他者を値踏みするためのとりわけて重要な基準となるときに成立しているものである」3)それにしても、「人が自らを評価する」とはどういうことなのだろうか。それは「人が自らを振り返り、自らを対象化する」ということを前提としている。人が自らを評価するとは、人が自らを対象化して自己イメージを形成し、それに評価を下すことを意味する。さらに、その評価が社会的ヒエラルキーによって媒介されているということは、その評価に他者との比較と他者の視線が構成的であることを含意する。おそらく、このあたりの事態を徹底的に解明するためには、人間の自己意識の諸構造についての一定の複雑性を持った哲学的理論が必要になるだろう。社会的ヒエラルキーの理論は、自己意識の構造における自己対象化とその評価に対する他者との比較の構成性を基礎としているのであって、その具体的応用という地位を占める。
 ここでハイデガーの哲学との関連をつけておくことも出来るかもしれない。非常に大雑把にいえば、「私」の持っている主体的側面、すなわち、そこで一切が現れる「そこ」としての側面はハイデガーによって「現存在(Dasein)」と名指される。他方で、私の持っている対象的側面、すなわち、そこで一切が現れる「そこ」がそれに属しているものとして理解されるところの、この人間としての私は「ひと(Das Man)」と名指される。この二つの区別は、私の目するところ、「本来性」と「非本来性」との対立におおまかに対応する。本稿の探求は私たちが「ひと」として「非本来的」に自らを理解する限りで展開される、自己を他者との比較において、また他者の視線を通じて評価する実践の基本的論理を規定することを目指すものだと言えるかもしれない。
 また私は以前の発表においてフロイトに依拠しながら自己意識の生成を捉えようと試みたが、それは主体の二重性、つまり、その主体的側面および対象的側面、そしてその連関の生成の論理を捉えようとするものだった。本稿はこの背景のもとでは対象的側面に関する自己意識の理論の応用として見ることができる。先に述べた通り、本稿の探求をより確固たるものとするためには純粋に哲学的な次元で自己の対象的側面における他者の視線および他者との比較の構成的性格を基礎付ける必要があるように思われる。
と。

 ここで生じる問いは、ではいかなる事実的差異が社会的ヒエラルキーを基礎付けるのかという問いであり、またそもそも社会的ヒエラルキーはいかに見て取られうるものになるのか、すなわち、それはいかに現象するのかという問いである。

 後者について私たちは、それは私たちに特異な社会的諸感情を経験させることによってであり、またコミュニケーションに特有の歪みを発現させることによってであると答える。

 すなわち、「優越感」「劣等感」「傲慢」「恥辱感」「貶下」「嫉妬」、そして「憎悪」といった感情であり、また「自慢」「やっかみ」「賞賛」「謙遜」「自虐」「(自虐に対する)フォロー」といった特異なコミュニケーション形態である。

 さて、かくして私たちは第3節では「いかなる事実的差異が社会的ヒエラルキーを基礎付ける差異であるのか」という問いを出発点として社会的ヒエラルキーの理論を構想し、続く第4節で先に見た諸現象を巡るより詳細な分析を遂行することになる。

3、社会的ヒエラルキーの理論―ルーマンの視座から

 本節は「いかなる事実的差異が社会的ヒエラルキーを基礎付ける差異であるのか」という問いを出発点とする。さて、それが本当に「社会的」であるならば、それは「社会的なもの」の本質に基礎付けられているはずである。では、「社会的なもの」の本質とは何か。私たちはルーマンの社会学の基本的部分にこの答えを求める事にする。

3-1、「社会」の必然性とその困難―協働の必要性と世界の複雑性

 そもそもなぜ「社会」なるもの、つまり、人間と人間との関係が必要なのだろうか。それは恐ろしく素朴に言えば、結局、人は一人では生きられないということ、あるいは少なくとも、人は一人よりも複数人の方が物質的・精神的に豊かに生きられるということによる。人間には「協働」が必要なのであり、だから社会が必然的なのである。

 しかるに、社会が必要という意味で必然的であるとしても、それは直ちにそれが可能であることを意味しはしない。社会あるいは秩序はいかにして可能なのだろうか(いわゆる「秩序問題」)。こう問うことは、社会的関係を困難にするものが何であるかを先行的に問うことを必要とする。

 ここから私たちはルーマンに依拠することができる。人間にあって「協働」、ひいては「社会」を困難にするのは、「世界の複雑性」である。人間的な「世界」は「その都度現実化されうるよりも多くの体験と行為の可能性を蔵している」限りで「複雑」であるとルーマンは言う4)Niklas Luhmann, Liebe Eine Übung, Suhrkamp Verlag, 2008, S.12.。もちろん、これは人間が唯一的な現実にたいして複数の可能性を重ね書きしうる存在者であることを、つまり、人間が自由な存在者であることを前提としている。

 さて、それはそれとして、この「複雑性」が協働を困難にするのはなぜか。それは、それによって「二重の偶然性」が生じるからである。

 このことは喩えによって説明するのが賢明だろう。世界に一つしかゲームがない、例えば将棋しかないとすれば、私があなたと将棋をするのに何の困難もない。私は将棋しか選べないし、あなたも将棋しか選べないのだから。これは世界が一つの可能性しかもたないという意味で複雑でない場合である。

 では、ゲームが複数あるとすればどうだろうか。例えば、将棋の他にチェスとトランプがあるとすれば。この場合、私が三つから一つを選ぶことができるだけではなく、相手も三つから一つを選ぶことができる。ここに「二重の偶然性(=他でありうること)」が存在するわけだが、このことが私と相手が同じゲームを選び、二人で楽しみ始めること、すなわち「協働」を困難にするわけである。

 どうすればいいのだろうか。二人の好みがたまたま一致するという幸運がなければ、まず必要なのは言語を通じたコミュニケーションだろう。話し合いによって一致に到達できるかもしれない。しかし、それも困難であるとすれば、何かそれ以上のものが必要になってくる。

 すなわち、「選択と動機付けを同時に遂行する」5)Ibid., S.13.もの、私が「選択」することによって同時に相手がその選択へと「動機付け」られるようなメカニズム、すなわち、ルーマンが「コミュニケーション・メディア」と呼ぶものが必要になってくるのである。

3-2、コミュニケーション・メディアと共生メカニズム―「社会」の可能性の条件

 さて、先の喩えにのっとって考えることとしよう。私があるゲーム、例えば将棋を選択するとして、その選択へと相手を動機付けることはいかなる時に可能になるだろうか。私が何を所持していれば、それが可能になるだろうか。それこそがコミュニケーション・メディアであるのだが。

 ルーマンの答えを本稿の議論に必要な範囲で言えば、それは「貨幣、権力、愛、真理」である6)Ibid., S.14.。こう言われれば誰もが納得するだろう。私が貨幣や権力を持っていれば相手をいやいやながらでも従わせることは容易だし、私が愛されていれば、あるいは私の立場を真理として提示できれば、相手は私の選択に自然に賛同するのである。

 こうして「世界の複雑性」とそれゆえの「二重の偶然性」という困難があったとしても「コミュニケーション・メディア」によって「協働 = 社会」は可能なのであり、これがルーマン流の秩序問題の解決の前半である。「コミュニケーション・メディア」は、この意味で「社会」を可能にするもの、すなわち、「社会的なもの」の本質なのである。

 さて、しかし、まだ「前半」である。というのも、なぜ人が皆これらのコミュニケーション・メディアによって動機づけられるのか、つまり、メディアの作用の普遍性の基礎がまだ明らかではないからである。この問題に対するルーマンの答えが「共生メカニズム」である7)Ibid., S.42-45.

 すなわち、ルーマンによれば、以上のコミュニケーション・メディアが広く一般に効力を発揮するのは、それらが最終的に身体的有機的な領域に基礎を持っているからなのである。

 「貨幣」が私たち皆を動機づけるのは最終的には私たちは皆食欲等の「身体的必要」を満たさなければならないからだし、「権力」が私たち皆を動機づけるのは最終的には私たちが「物理的暴力」を避けたいからであるし、「愛」が私たち皆を動機づけるのは最終的には私たちが「セクシュアリティ」を持っているからであるし、「真理」が私たち皆に妥当するのは、それが「知覚」という身体的な基礎を持っているからである。

 こうしてメディアの作用の普遍性を基礎づけ保証し、かくして「共生」を可能にしている身体的要素こそ、ルーマンが「共生メカニズム」と呼ぶものであり、それがルーマン流の秩序問題への回答の後半をなす。

 コミュニケーション・メディアは共生メカニズムに基礎付けられることで自らの作用を普遍的なものとするのであって、そういうものとして社会を可能にするもの、すなわち、もう一度繰り返せば、「社会的なもの」の本質なのである。

3-3、「社会的」ヒエラルキーは「社会的なもの」の本質に自らの根拠を持つ

 さて、こうして「社会的なもの」の本質に対する一つの見解を得たところで、本節の問い、「いかなる事実的差異が社会的ヒエラルキーを基礎付ける差異であるのか」に戻ろう。私たちは「社会的ヒエラルキー」が「社会的」と呼ばれることが正当である限りで、それは「社会的なもの」の本質に基礎を持っているはずだと考えたのだが、いまやこの着想の正しさは明らかだろう。

 すなわち、「社会的ヒエラルキー」を基礎付ける「事実的差異」とは、メディアの所持量の差異なのである。メディアはそれによって私の選択に他者を動機づけることで協働すなわち社会を可能にするものだが、これを言い換えれば、メディアは他者を従わせる力であり、社会的な力そのものであるということになる。

 そういうものとして、メディアは私たちの欲望の対象になる。それは他者を動かす力への欲望であり、そういうものとして、社会のうちに生きる人間によって広く欲望される。そして、そのように「欲望」されることによって、「他者の欲望を欲望する」社会的人間にとっては、なお一層の欲望の対象となるのである。

 そういうわけで「貨幣」は「金持ち/貧乏」、「権力」は「力がある/ない」という社会的ヒエラルキーを構成する差異を作り出す。

 そして「愛」に関するこの種の差異は現在一般に「モテる/モテない」と呼ばれているが、これについて事態がどうなっているかは容易には見通し難いこともあってか、多く見た目の「美/醜」が近似的にこの差異を代理する。

 最後に「真理」は真理の素早い発見能力および蓄積能力として「頭が良い/悪い」という差異を産出するが、これもまた、その実相の見通し難さのゆえか、しばしば「高学歴/低学歴」という差異によって代理される。

 第2節で私たちは「社会的ヒエラルキーとは、何らかの社会的な事実的差異に関して「上下 = 優劣 = 勝敗」という価値付けが生じ、それが全社会的に共有され、人が自らを評価し他者を値踏みするためのとりわけて重要な基準となるときに成立しているものである」と定義しておいたのだが、社会的な力、社会を可能にする力が社会内部で広く欲望され、したがって評価されることは見てとりやすいとしても、それが「全社会的に共有される」までに至るのは何故なのだろうか。

 なぜさしあたり上にあげた四つのメディアが生み出す四つの差異のみが、その地位に登りつめるのだろうか。もちろん、これを説明してくれるのが「共生メカニズム」である。これら四つのメディアは身体的次元に根ざし、したがって人間の普遍的欲望に根ざすが故に、それが作り出す四つの差異は「全社会的に共有される」「価値付け」を生み出すのである。

 ひとは、身体を所持している限り、容易にはそこから「一抜けた!」といえないというわけだ。ここからして、既存の「あらゆる」社会的ヒエラルキーを一挙に撤廃する最もラディカルな革命、主に金銭的な格差を問題にしたマルクスの少なくとも4倍はラディカルな、「絶対的」と言いたくなるような革命は、人間を身体から解放することによってのみ果たされうるという、これまた極めてラディカルな結論が出てくるのだが、この問題について論じることには、本稿の私たちはまだ、到達し得ないだろう。

 ただ、一つだけ述べておくならば、この「あらゆる」社会的ヒエラルキーを解体する最もラディカルな革命は、人間を身体から解放することによって、同時に社会を成り立たせていた基盤、すなわち「メディア」の作用の普遍性を基礎づける「共生メカニズム」を破壊することによるものであり、従って、同時に社会そのものの可能性の掘り崩しでもある。こうして、この革命を思考する人は、同時に「ポスト社会」の生の可能性をも思考せざるを得ないのである8)本当にそうなのだろうか?私たちはここで社会の否定的構成原理と肯定的構成原理を分けるべきではないのか?否定的構成原理とは、他者ないし社会に従いたくない場合でも、身体的基礎の作用により、私たちが他者に従わざるを得ないという契機による、また、その裏面として、メディアを蓄積することで他者を従わせたいという契機によるものである。他方で、肯定的構成原理とは、人間が自己意識として、自己自身との差異であり、かくして、他者による承認を必要とする存在であるという契機によるものであると言えないだろうか。

 さて、なんにせよ、以上の探求によって、私たちは世界が複雑である限りで、言い換えれば、人間が自由である限りで、人間は社会秩序を構成するためにコミュニケーション・メディアという社会的な力、社会を可能にする力を必要とし、従ってほとんど必然的に、その配分の不均衡の結果としての社会的ヒエラルキーが形成されるということを示したと言えるだろう。

3-4、「道徳」の場所―社会的ヒエラルキーの「隠蔽」への問い

 さて、私たちは次節において社会的ヒエラルキーの現象形態として特異な諸感情とコミュニケーション形態を取り扱うつもりだが、その前に考えておくべきは、社会的ヒエラルキーにはそれに言及させないという意味で、その顕在化を妨げるような力が働いているということである。その力を私たちは「道徳」として特定する。

 こう私たちが言うのもルーマンの観点からである。ルーマンにおける「道徳」の位置付けをまず見ておこう。ルーマンが近代社会を考える上での一番根底にある仮説は、「階層分化社会から機能分化社会への移行」として近代化を捉えるというものである。階層分化社会では社会秩序は主に階層ごとに異なる「道徳」によって保たれるが、機能分化社会はむしろ先に見たような諸メディアによって担われる分化した諸機能システム(経済システム、政治システム…)により秩序が保たれることになる。

 階層分化社会では人間はそれぞれ一つの階層に埋没する存在として未だ「個人性 = 人格(Persönlichkeit)」を持たないものとして把握されるが、機能分化社会では人間は諸々の諸機能システムに同時に関係し、そうであるがゆえに、諸機能システムには還元されないもの、それに先立つもの、すなわち、「個人性 = 人格」として捉えられるようになる9)Niklas Luhmann, Liebe als Passion, Suhrkamp Verlag, 1994, S.16-17.。この「個人性 = 人格」としての人間が様々な機能システムに参加するというわけだ。

 階層分化社会は階層「道徳」を秩序原理とし人間はそこに埋没している。機能分化社会では、階層秩序は崩壊し、人間は諸部分システムに参加する平等な「人格」として観念される。では、この変化において「道徳」はいかなる運命を被ったのか。

 まず、注目するべきはルーマンも述べているように近代を特徴付ける諸メディアははじめ「不道徳」なものとして現れたということである10)Ibid., S.38. und Niklas Luhmann, Paradigm lost: Über die ethische Reflexion der Moral, Suhrkamp Verlag, 1990, S.24.。思想史的に言えば、ひょっとすると「貨幣」「権力」「愛」の不道徳性はそれぞれマンデヴィル、マキャベリ、フロイトによって象徴されるということができるかもしれない。
 
 さて、事情がこうだとすれば、「道徳」は近代化の過程で近代的諸メディアによって食い破られ、さらにその基盤だった階層を解体され消滅したのだろうか。ルーマンの考えではそうではない。「道徳」はある残滓として残っているのであり、それは正確に人間から諸部分メディアへの参与部分を引いた残余として析出される「個人性 = 人格」に関わる。

 ルーマンの視座からすれば「道徳」も人を特定の選択へと動機づけるものとしてコミュニケーション・メディアであることは見て取りやすいが、それはいかにして動機づけるのだろうか。ルーマンの定義するところ、「道徳」とは「人格に対して尊敬/軽蔑という評価を付与することを通じて」人を動機づける11)Ibid., S.18.。私たちは尊敬されるため、そして軽蔑されないために、ある特定の選択へと動機づけられるのである。

 ただ、私たちにとってのポイントは、この「道徳」が近代にあっては単に残滓でしかないということである。

 つまり、社会秩序の基本的構成は「不道徳」、少なくとも「非道徳」的な部分システムによって担われているのであり、人間もそれぞれの部分システムの枠内ではそのシステムの論理によって評価される―お金があれば人格など関係なく物が買える、能力があれば人格がよほど酷くない限り出世できる等々―のであって、「道徳」は人間のうちで部分システムへの参与、そこにおける役割に還元されない部分、「個人性 = 人格」の部分にわずかに関わるだけなのである。その些細さは例えば「店員に対する態度が大きいやつはクズ」といったよくある「道徳」的言説に見て取ることができるだろう。

 さて、社会的ヒエラルキーに話題を戻そう。問題は、それが厳然たるものとして存在するにもかかわらず、なぜそれへの言及が抑制されるのかであった。それを抑制する力を私たちは「道徳」と名指しておいたのだが、その意味は、やや先走り的に定式化するならば、こう表現することができる。

 「道徳」は私たちの社会にあっては「諸部分システム = メディア」が作るヒエラルキーに対立する仕方で構造化されている、あるいはもっと正確に言えば、「道徳」は「個人性 = 人格」にたいして「諸部分システム = メディア」が作り出すヒエラルキーから自立的であるべきことを要請する、と。

 この点をより詳しく検討し、そのことを通じてこのテーゼを正当化するためには、幾つかの事例を想定してみなければならない。一番簡単なところでは、素朴でよく聞く言明「お金を持っているかで人を判断してはいけない、そんなことをする奴はクズだ」が以上のテーゼを支持する。この道徳的言説は社会的ヒエラルキーの次元における評価を人格の評価とする言説に反対しており、この二つの評価を一致させるような人の人格を断罪している。

 だがより興味深い事例は「Aさんはお金持ちだからな~/モテるからな~/頭がいいからな~」 12)ここで少々事柄を複雑にすることを述べておくなら、「愛」はルーマンにあっても「人格」に関わるものとして理解されているということである。このことは、例えば、「道徳」が「金」についての判断と「人格」についての判断をはっきり区別することができるほどには、「愛」についての判断と「人格」についての判断をはっきり区別するのは難しいことを意味する。といった嫉妬めいた言明が含むどこか「批判的なトーン」である。つまり、これは少々解釈してパラフレーズするならば、「あなたの余裕はあなたの所有するメディアによるものであり、あなた自身、あなたの人格の力によるものではない!」という意味なのである。

 このような言明がどこか「批判的」な「皮肉」として響くという事実は、私たちが社会的ヒエラルキーの外に一定の評価軸を持っていることを明らかにする。人格の卓越性は社会的ヒエラルキーから独立していなければならないというわけだ。これも上のテーゼを支持するだろう。

 さて、ここまでならば「道徳」は社会的ヒエラルキーの外部を何らかの意味で確保していると言えるかもしれないが、問題的なのは、「道徳」は明らかにそれを隠蔽する機能をも持ってしまっていることである。

 というのは、ヒエラルキーからの自立を唱える「道徳」は、あらゆるヒエラルキーへの言及を、何かしらそれへの依存として弱さとみなすか、あるいはある下品さないし無作法とみなすことによって、それを抑制するからである。つまり、それは先に見た事例のようにヒエラルキー上の強者を裁くのみならず、ヒエラルキーを語り、それを場合によっては問題化しようとする弱者まで裁いてしまうのである13)第0節冒頭での中島義道の引用を想起せよ。

 このことを具体的に把握するために、私たちは最初に引用した『明暗』の場面を想起するべきである。もう一度引用しよう。

(お延)「でも継子さんは仕合せね。あたしみたいに心配性でないから」
(叔母)「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
(お延)「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
(叔母)「そりゃお前と継とは…」
 中途で止めた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気の付かなかった或物に、突然ぶつかったような動悸がしたからである。
(お延)「昨日の見合に引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
 お延の頭に石火のようなこの暗示が閃いた時、彼女の意志も平常より倍以上の力をもって彼女に逼った。彼女は遂に自分を抑え付けた。どんな色をも顔に現さなかった。
(お延)「継子さんは得な方ね。誰にでも好かれるんだから」
(叔母)「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々だからね。あんな馬鹿でも…」(p195-196)

 この引用で注目するべき第一の点は、やはり、叔母の語りの中断である。「そりゃお前と継とは…」。なぜ叔母の語りは中断されるのだろうか。実際のところ私たちはそこで語られたはずのこと分からない以上、そのことを言うことはできないのだが、一つ推測することはできる。

 すなわち、叔母はその後に「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々だからね。あんな馬鹿でも…」と「継子」の知性に関して「これ見よがしに」否定的評価を提示するのであって、私たちの理論的視座からすれば、叔母はこうして馬脚を現すのである。

 つまり、このように言う叔母はその直前に「継子」を「お延」より高く評価していたと推測されるのであり、「知性」の優劣に匹敵する、それによって相殺されなければならない差異とは、ここで私たちの理論的視座が活きてくるのだが、「容貌」の差異であるように思われるのだ14)この叔母の発言は、お延が自らの容貌が優れないことを自覚して、むしろ知性を、ある種の手練手管を用いて夫の愛を得ようとしていることに対応していると見ることもできる。こう見るとき、お延「継子さんは得な方ね。(容貌が良くて)誰にでも好かれるんだから」という発言は、()を補って読むべきであり、さらに、彼女が夫の愛に不安を抱えていることを考慮すれば、「容貌が良くない私は誰にも好かれない」という自虐として読まれなければならない。かくして叔母の発言は継子の知性を貶めることを通じて間接的にお延の知性を称揚し、かくして、自虐に対するフォローとなっているということになろう。もちろん、事柄が「結婚」、すなわち「愛」である限りで、このフォローの有効性は限定的であり、その限定性の自覚が叔母の最後の発言をしり切れとんぼとする「…」に現れているのではないだろうか。

 とはいえ、より重要なことは、この「中断」こそがお延に今まで思いもよらなかった「容貌」をめぐる着想を得させるということである。このことはお延が「容貌」は言及されてはならないこと、それを言及することを押しとどめる力があることを理解していることを前提としている。「容貌」への言及は何がしか「下品」で「無作法」なものとして社会的に抑制されている、そのことをお延が理解しているからこそ、「中断」が気づかせる力を持つのである。

 だが、さらに興味深いのはその着想に続く「彼女の意志も平常より倍以上の力をもって彼女に逼った。彼女は遂に自分を抑え付けた。どんな色をも顔に現さなかった」という漱石の徹底的に的確な描出だろう。

 お延は気づいたことを気づかれてはならない、「容貌」の問題への非言及による言及に気づき、それを顔に出すこと、それを「気にしている」ことを気づかれてはならない、この発想がお延の平常の二倍の意志を呼び起こす。なぜこんなことが生じるのだろうか。

 それは、もちろん、「気にしている」ことそのものが何か「恥ずかしい」からだろう。社会的ヒエラルキーを「気にしている」こと、その次元になんらかの意味で「依存している」ことは人格的な「弱さ」として理解されているのである。ここでもまた人格はヒエラルキーから独立するべきものとして構想されていること、しかるに、ここではそのことが社会的ヒエラルキーを弱者が告発することを先行的に妨げていることが明らかだろう。

 さて、この漱石の一節についての考察のしめくくりに私たちは以下のテーゼを引き出しておこう。社会的ヒエラルキーに即して社会を見ようとする私たちにとっては、「社会的ヒエラルキーは、ある種の語りの非-生起として、あるいは、ある種の表情の必要以上のこわばりとして、根源的に現象する」、と。

 すなわち、社会的ヒエラルキーは、それに対立する「道徳」に濾過されることで、叔母の語りの中断、その「非-生起」、三点リーダとして、またそれを気にしていることを気づかれないために表情を隠そうとすることが作り出すお延の表情のこわばりとして、見て取られうるようになるのである。

 本節を整理しよう。私たちのテーゼは、私たちの「道徳」は諸機能システムに基礎を持つ社会的ヒエラルキーに対抗する形で構造化されており、「人格」に対してヒエラルキーからの自立を要請するということである。

 私たちが具体的に確かめたところでは、「道徳」は社会的ヒエラルキーに基づく値踏みを人格全体の判断とすることを断罪し、また社会的ヒエラルキーに基づく余裕を告発することで、社会的ヒエラルキーの外部をなにがしかの程度において確保しはするものの、他方でそれへの言及一般を下品なもの、さらにはそれに囚われ依存していることとして人格の弱さとみなすことを通じて、ヒエラルキーの存在そのものを隠蔽するのである。

 私たちは一般にその差異に(叔母の語りが中断されたことに示されるように)言及しないのだし、また弱者も(お延がそれを気にしていることを気づかれないよう試みたように)それに言及できないのである。

 こういったことすべてを含み込むものとして上のテーゼは理解されなければならない。だが、「道徳」が社会的ヒエラルキーを隠蔽し、また―「空想的な仕方で」と私は言いたいが―その外部を確保しようと試みようと、それは厳然と「存在」し続け、私たちは自らをそれに基づいて評価し、他者をそれに基づいて値踏みし続ける。

 「道徳」はせいぜい気休めであって何も解決しはしない。次節で私たちは社会的ヒエラルキーの厳然たる「存在」を明かす、その「現象」―先に見た道徳を媒介にした「非現象」としての「現象」ではない、もっと多様で豊かな「諸現象」―に注視してみることにしよう。

4、社会的ヒエラルキーの諸現象

 本節で私たちは社会的ヒエラルキーによって引き起こされ、また翻って社会的ヒエラルキーの存在を示すような諸現象を観察する。この探求は本来網羅的であることが望ましいが、今回はその点にはいかなる意味でも到達されえず、ただ根本的なものだけが取り扱われうる。(未完)

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 本稿は以前にルーマンの「愛」の概念について研究していた際の副産物です。その意味で、この論考の本編となっている議論については、以下をご参照いただければと思います。

ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』:哲学的(?)解釈の試み

References   [ + ]

1. 「理論的」とはどういうことだろうか。ある知人の示唆によりながら言えば、理論の理論性とは、それが別個の事例の間に何らかの構造的共通性を見出し、それまでは関係ないと思われていた諸事例の間に並行関係と比較可能性を打ち立てるということのうちに存している。この厳密な意味で本稿は理論的解明でありたいと思っている。
2. これは私が夏目漱石の『明暗』を一言で評するために作ったフレーズである。漱石はこの作品の中で主人公夫妻と主人公の妹であるお秀との口論を「戦争」と名指しているのだが、この語の意味は徹底的に重く取られるべきである。というのは、『明暗』は市民社会内部に張り巡らされたヒエラルキー的な対立軸をめぐる戦い、まさしく「戦争」を描き出したものとして読めるからである。すなわち、金をめぐっては主人公の津田と小林の対立があり、美をめぐっては津田の妻お延とその従姉妹である継子および津田の妹のお秀との対立があり、さらに知性をめぐっては津田とお秀、お延と継子、お延とお秀の間に対立がある。この諸々の軸をめぐる激突の中で各々が自らの優位を確保しようとすることが「市民社会「という」戦争」の内実であり、漱石は「戦争」の語を印象的に用いることで、いまここに、まさに私たちのもとに「も」ある—というのは、当時は第一次大戦の真っ最中だからであるが—「戦争」を名指そうとしたのである。
3. それにしても、「人が自らを評価する」とはどういうことなのだろうか。それは「人が自らを振り返り、自らを対象化する」ということを前提としている。人が自らを評価するとは、人が自らを対象化して自己イメージを形成し、それに評価を下すことを意味する。さらに、その評価が社会的ヒエラルキーによって媒介されているということは、その評価に他者との比較と他者の視線が構成的であることを含意する。おそらく、このあたりの事態を徹底的に解明するためには、人間の自己意識の諸構造についての一定の複雑性を持った哲学的理論が必要になるだろう。社会的ヒエラルキーの理論は、自己意識の構造における自己対象化とその評価に対する他者との比較の構成性を基礎としているのであって、その具体的応用という地位を占める。
 ここでハイデガーの哲学との関連をつけておくことも出来るかもしれない。非常に大雑把にいえば、「私」の持っている主体的側面、すなわち、そこで一切が現れる「そこ」としての側面はハイデガーによって「現存在(Dasein)」と名指される。他方で、私の持っている対象的側面、すなわち、そこで一切が現れる「そこ」がそれに属しているものとして理解されるところの、この人間としての私は「ひと(Das Man)」と名指される。この二つの区別は、私の目するところ、「本来性」と「非本来性」との対立におおまかに対応する。本稿の探求は私たちが「ひと」として「非本来的」に自らを理解する限りで展開される、自己を他者との比較において、また他者の視線を通じて評価する実践の基本的論理を規定することを目指すものだと言えるかもしれない。
 また私は以前の発表においてフロイトに依拠しながら自己意識の生成を捉えようと試みたが、それは主体の二重性、つまり、その主体的側面および対象的側面、そしてその連関の生成の論理を捉えようとするものだった。本稿はこの背景のもとでは対象的側面に関する自己意識の理論の応用として見ることができる。先に述べた通り、本稿の探求をより確固たるものとするためには純粋に哲学的な次元で自己の対象的側面における他者の視線および他者との比較の構成的性格を基礎付ける必要があるように思われる。
4. Niklas Luhmann, Liebe Eine Übung, Suhrkamp Verlag, 2008, S.12.
5. Ibid., S.13.
6. Ibid., S.14.
7. Ibid., S.42-45.
8. 本当にそうなのだろうか?私たちはここで社会の否定的構成原理と肯定的構成原理を分けるべきではないのか?否定的構成原理とは、他者ないし社会に従いたくない場合でも、身体的基礎の作用により、私たちが他者に従わざるを得ないという契機による、また、その裏面として、メディアを蓄積することで他者を従わせたいという契機によるものである。他方で、肯定的構成原理とは、人間が自己意識として、自己自身との差異であり、かくして、他者による承認を必要とする存在であるという契機によるものであると言えないだろうか。
9. Niklas Luhmann, Liebe als Passion, Suhrkamp Verlag, 1994, S.16-17.
10. Ibid., S.38. und Niklas Luhmann, Paradigm lost: Über die ethische Reflexion der Moral, Suhrkamp Verlag, 1990, S.24.
11. Ibid., S.18.
12. ここで少々事柄を複雑にすることを述べておくなら、「愛」はルーマンにあっても「人格」に関わるものとして理解されているということである。このことは、例えば、「道徳」が「金」についての判断と「人格」についての判断をはっきり区別することができるほどには、「愛」についての判断と「人格」についての判断をはっきり区別するのは難しいことを意味する。
13. 第0節冒頭での中島義道の引用を想起せよ。
14. この叔母の発言は、お延が自らの容貌が優れないことを自覚して、むしろ知性を、ある種の手練手管を用いて夫の愛を得ようとしていることに対応していると見ることもできる。こう見るとき、お延「継子さんは得な方ね。(容貌が良くて)誰にでも好かれるんだから」という発言は、()を補って読むべきであり、さらに、彼女が夫の愛に不安を抱えていることを考慮すれば、「容貌が良くない私は誰にも好かれない」という自虐として読まれなければならない。かくして叔母の発言は継子の知性を貶めることを通じて間接的にお延の知性を称揚し、かくして、自虐に対するフォローとなっているということになろう。もちろん、事柄が「結婚」、すなわち「愛」である限りで、このフォローの有効性は限定的であり、その限定性の自覚が叔母の最後の発言をしり切れとんぼとする「…」に現れているのではないだろうか。
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