第1章 第1節 コミュニケーション・メディアとは何か

 ルーマンが言うコミュニケーション・メディアの意味を正確に把握するためには、さしあたり「コミュニケーション・メディア」と聞いて思い浮かぶことを捨象しておくべきだろう。さて、議論の始まりの場面は「社会」を困難にするものは何かという、「社会」の可能性そのものに先行する「問題」である。

1-1、「世界の複雑性」から「コミュニケーション・メディア」へ

 なぜ社会秩序は困難なのか。この「問題」に対するルーマンの答えは「世界の複雑性」である。人間的な「世界」は「その都度現実化されうるよりも多くの体験と行為の可能性を蔵している」限りで「複雑」であるとルーマンは言う1)LU, S.12.

 もちろん、これは人間が唯一的な現実にたいして複数の可能性を重ね書きしうる存在者であることを、つまり、人間が自由な存在者であることを前提としている。さて、それはそれとして、この「複雑性」が社会関係を困難にするのはなぜか。それは、それによって「二重の偶然性(ダブル・コンティンジェンシー)」が生じるからである。

 このことは喩えによって説明するのがよいだろう。世界に一つしかゲームがない、例えば将棋しかないとすれば、私があなたと将棋をするのに何の困難もない。私は将棋しか選べないし、あなたも将棋しか選べないのだから。

 これは世界が一つの可能性しかもたないという意味で「複雑でない」場合である。ひょっとすると動物は本能によってプログラムされ、「意味」を欠いていることで、このような複雑性を欠いた世界を生きているのかもしれない。

 しかるに、ゲームが複数あるとすればどうだろうか。例えば、将棋の他にチェスとトランプがあるとすれば。この場合、私が三つから一つを選ぶことができるだけではなく、相手も三つから一つを選ぶことができる。

 私が選択の意識を持つとき、私は同時に他者が別様に選びうることにも思い及び、そうして彼我の不一致の可能性を予想することによって、私はゲームの提案において尻込みする。もし断られたらどうしようというわけだ。

 ここに「二重の偶然性(=他を選びうること)」が存在するわけだが、このことが、私がゲームをしようと提案すること、私と相手が同じゲームを選ぶこと、そして二人で一緒に楽しみ始めること、すなわち、二人の協働を、ということは、「社会」を困難にするわけである。

 どうすればいいのだろうか。二人の好みがたまたま一致するという幸運がなければ、まず必要なのは言語を通じたコミュニケーションだろう。話し合いによって一致に到達できるかもしれない。しかし、それも困難であるとすれば、何かそれ以上のものが必要になってくる。

 すなわち、「選択と動機付けを同時に遂行する」2)LU, S.13.もの、私が「選択」することによって同時に相手がその選択へと「動機付け」られるようなメカニズム、すなわち、ルーマンが「コミュニケーション・メディア」と呼ぶものが必要になってくるのである。

 さて、先の喩えにのっとって考えることとしよう。私があるゲーム、例えば将棋を選択するとして、その選択へと相手を動機付けることはいかなる時に可能になるだろうか。私が何を所持していれば、それが可能になるだろうか。それこそがコミュニケーション・メディアであるのだが。

 ルーマンの答えを本稿の議論に必要な範囲で言えば、それは「貨幣、権力、愛、真理」である3)LU, S.14.。こう言われれば誰もが納得するだろう。私が貨幣や権力を持っていれば相手をいやいやながらでも従わせることは容易だし、私が愛されていれば、あるいは私の立場を真理として提示できれば、相手は私の選択に自然に賛同するのである。

 こうして「世界の複雑性」とそれゆえの「二重の偶然性」という困難があったとしても、「コミュニケーション・メディア」によって「社会」は可能なのであり、これがルーマン流の秩序「問題」、社会の可能性の条件の「問題」の解決の前半である。

 「コミュニケーション・メディア」は、この意味で「社会」を可能にするもの、すなわち、「社会的なもの」の本質なのである。

 諸メディアはこのように秩序「問題」の解決である限りで機能的に等価なのであり、そのような並列により、諸メディア間の比較可能性が開かれる。これがルーマンの「愛」をめぐる議論が位置付けられている一番広い文脈である。

1-2、「共生メカニズム」について

 さて、しかし、まだ社会の可能性の条件の「問題」の解決の「前半」である。というのも、なぜ人が皆これらのコミュニケーション・メディアによって動機づけられるのか、つまり、メディアの作用の普遍性の基礎がまだ明らかではないからである。この問題に対するルーマンの答えが「共生メカニズム」である 4)LU, S.42-45.

 すなわち、ルーマンによれば、以上の諸コミュニケーション・メディアが広く一般に効力を発揮し、近代社会において決定的な仕方で制度化され、近代社会を支える存在たり得ているのは、それらが最終的に身体的有機的な領域に基礎を持っているからなのである。

 「貨幣」が私たち皆を動機づけるのは最終的には私たちは皆食欲等の「身体的必要」を満たさなければならないからだし、「権力」が私たち皆を動機づけるのは最終的には私たちが「物理的暴力」を避けたいからであるし、「愛」が私たち皆を動機づけるのは最終的には私たちが「セクシュアリティ」を持っているからであるし、「真理」が私たち皆に妥当するのは、それが「知覚」という身体的な基礎を持っているからである。

 こうしてメディアの作用の普遍性を基礎づけ保証し、かくして「共生」を可能にしている身体的要素こそ、ルーマンが「共生メカニズム」と呼ぶものであり、それがルーマン流の秩序「問題」への回答の後半をなす。

 コミュニケーション・メディアは共生メカニズムに基礎付けられることで自らの作用を普遍的なものとするのであって、そういうものとして社会を可能にするもの、すなわち、もう一度繰り返せば、「社会的なもの」の本質なのである。

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第1章 ルーマンの「愛の哲学」―コミュニケーション・メディアとしての愛
第1章 第2節 コミュニケーション・メディアとしての愛の特質

はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』

References   [ + ]

1. LU, S.12.
2. LU, S.13.
3. LU, S.14.
4. LU, S.42-45.
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