「愛とは何か」に対するルーマンの答え、ルーマンの「愛の哲学」は、やはり「社会学的」なものである。その社会学性を私たちは二重の仕方で特定できる。この二重性が本稿の第1章と第2章にそれぞれ対応する。
第一に、ルーマンの「愛」の概念が社会学的であるとは、それが人と人との間の社会関係を対象とすること、すなわち、ルーマン的に言えばコミュニケーションを対象とすることを意味する。ルーマンは愛を「コミュニケーション・メディア」として取り扱うのである(本稿第1章)。
そして第二に、ルーマンの探求の更なる社会学性は、ルーマンがこのように「コミュニケーション・メディア」として特定された「愛」を、感情としてではなく、「コミュニケーション・コード」として扱うことのうちに見て取れる(本稿第2章)。引用しよう。
メディアとしての愛は感情ではなく、コミュニケーション・コードなのである。コミュニケーション・コードとは、その規則に従って、ひとが感情を表現し、形成し、模倣したり、他者のうちに想定したり、否定したりできるもの、またこれらすべてとともに、その規則に従うことで、もし対応するコミュニケーションが成立したならば生じるであろう帰結に対処することができるようなコードのことである。1)LP, S.23.
このことのうちのどこに社会学性があるのだろうか。愛が感情として取り扱われるなら、愛は個人の中に閉じ込められ、心理学ないし生理学の対象となるだけだろう。他方で、愛がこのような文化的なコードとして取り扱われるなら、それはその社会的・歴史的な生成と伝承と変容において問われうる。
個人を超えたところで作られ、伝えられ、変わっていくコードにしたがって、個人のうちで感情がそれとして認識され、個人はその感情に基づいて特定の仕方で振舞う。だからルーマンは自らの探求にとって感情の「曖昧さと可塑性が本質的である」2)LU, S11. と述べる。
曖昧で可塑的な生理学的ないし心理学的な基礎の上で、社会的・文化的なコードによりながら私たちは愛の感情を形成し表現する、あるいはむしろ特定の感情経験を「愛」とみなすのであり、またそのような「みなし」に基づいて、それこそ「愛」のコードに寄り添いつつ、行為するのである。
これをシニカルに定式化すれば、私たちの愛などというのは愛についてのコード、平たく言えば、愛についての様々な語りや表象の「コピー」によって可能になるとも言える3)LP, S.54-55. とはいえ、この一見するとシニカルな認識は、ルーマン自身にシニカルな立場取りを強いてはいないように見える。ルーマンが「愛」を語るスタンスの問題は以後たびたび取り扱われることになる。。ルーマンがLPの冒頭近くで言及し、注で引用しているラ・ロシュフーコーの言葉でいえば、「愛について語られるのを聞かなかったなら、決して愛することのなかったような人々がいる」4)LP, S.9, S.23注. のである。
以上のようなコード、ルーマンに特徴的な言葉でいえば、「愛のゼマンティク(Liebessemantik)」の変容過程こそ、ルーマン的な「愛の歴史社会学」の根幹部分を形成する。これは第2章の主題である。
さて、愛をコミュニケーション・メディアとして規定するルーマンの「愛の哲学」を扱う第1章は以下のように分節される。第1節 コミュニケーション・メディアとは何か、第2節 コミュニケーション・メディアとしての愛の特質、第3節 愛の成立・安定・危機、第4節 愛の無根拠―あるいは、愛を信じること/理論を信じること。
以下では一歩一歩、ルーマンの思考の歩みを追いかけることとしよう。
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はじめに・目次:ニクラス・ルーマンの「愛」の概念―徹底解読『情熱としての愛』
References
1. | ↑ | LP, S.23. |
2. | ↑ | LU, S11. |
3. | ↑ | LP, S.54-55. とはいえ、この一見するとシニカルな認識は、ルーマン自身にシニカルな立場取りを強いてはいないように見える。ルーマンが「愛」を語るスタンスの問題は以後たびたび取り扱われることになる。 |
4. | ↑ | LP, S.9, S.23注. |