あまりに早く既存事業となった「新規事業」—会社員時代の経験から

 私は大学院で哲学を学んでいた頃と、塾を運営しはじめた頃との間に、半年だけベンチャー企業で働いていたことがあります。

 そこで私が経験した状況は、会社というものの中では、それなりに一般性を持つようにも思われます。とするなら、私が当時その会社の状況について考えたことも、それなりに一般的な通用性と有用性を持ちうるでしょう。

 さらに、その考えを述べるために必要になってくる「新規事業」と「既存事業」の特徴づけは、そのまま「大企業」と「ベンチャー企業」の特徴付けに横滑りさせることができるはずです。したがって、それは「大企業かベンチャーか」という問題に対する一つの解答、というより、解答の指針でありうると思うのです。

 そんなわけで、ここでは当時、私がその会社の状況を捉えるために考えた概念、すなわち、「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」について説明していきたいと思います。

 本稿は、非常に概念的・理論的ではありますが、その理論性は同時に私なりに当時の思い出を書き残しておくための迂路でもあります。以下、本文は「だ・である」調になります。

1、「新規事業」とは、どんな経験なのか? 

 「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」を説明するためには、まず「既存事業」と「新規事業」の概念を内容豊かに規定する必要がある。

 「新規事業」からはじめよう。「新規事業」が「新規事業」と呼ばれるのは、それがまだ収益を生み出すシステムとして確立されていないからだろう。

 このことは、そこの中で働くメンバーにとって、どのような状況として立ち現れてくるだろうか。それはまずもって「こうしとけばいい」「こうすればうまくいく」という「公式」や「正解」のようなものがまだ見出されていないことを意味する。

 たとえば、新規事業が何らかの新商品の販売だとすれば、どこにその新商品を買ってくれる顧客がいるのかも分からなないし、どのような訴求が商品を顧客に最大限魅力的に見せることができるのかも分からない。

 ここから、私が考えるに、新規事業における上下関係の「フラットさ」がかなりの確率で帰結する。

 というのも、「正解」がない場合には、正解を見つけるための試行錯誤の「質と量」を増やすことが重要であり、そのためには、一般に誰かの全体的指導のもとで動くよりも、メンバー各人が自主的に自らの判断で動いていった方が有効だからである。

 「フラットで上下関係がなく、自主的に自らの判断で動ける職場!」というと聞こえがいいが、この裏面として、新規事業の職場はさまざまなデメリットを抱えている。

 まず、自主的に判断するということは自らの行動に責任を負うということであり、これは多くの人にとって実はかなり大きな負担である。

 さらに、新規事業における試行錯誤においては多数の「失敗」が付いて回る。営業に行っても門前払いや失注を繰り返さざるを得ない可能性が高いのだ。もちろん、その裏面には失敗によって成長するという可能性が張り付いているにしても。

 さて、これら「責任」や「失敗」はどちらかというと精神的・主観的なデメリットだが、さらに物質的・客観的なデメリットとして、金銭面での不安定性がある。

 新規事業は、それが新規事業である限り、安定した売り上げが立っておらず、立たないままで終わる可能性もある。したがって、給与は比較的に安いだろうし、最悪の場合、事業は潰れて給料どころではなくなってしまう。

 そして、それと表裏一体のことだが、新規事業は「まだ社会の役に立っていない」。売り上げが立ち、それが安定しているということは、それを購入している顧客がいるということであって、そのことはその事業が他者ないし社会に役立っていることを意味する。

 新規事業にはそれがなく、「社会貢献」を重視する人々は、そこに「やりがい」の欠如を感じるかもしれない。もちろん、その代わりに与えられている精神的な利得が、この事業がいつか大きな成長を経験するかもしれないという展望であり、また自主的な判断と失敗の繰り返しという試行錯誤のなかで、自分も成長できるかもしれないという期待感である。

 こうした諸規定によって、私たちは「新規事業」という経験に、もちろん、粗いものではあるが、一つの輪郭を与えることができる。

 まとめれば、新規事業とは、まだ収益を上げる方法が確立されていない事業であり、そのためそこには「正解」がなく、上からの指示ではなくて、メンバーの個別の判断による「試行錯誤」が求められる。

 その職場はフラットで自主的な判断が尊重されるが、それは仕事における失敗や、金銭的不安定さといったリスクと表裏一体であり、また現に社会貢献しているという実感も得られない。

 ただ、その代わりに、「試行錯誤」がうまくいけば、自分と事業が大きく成長し、社会に変化をもたらすという期待が精神的な利得として与えられてもいるのだ。

2、「既存事業」とは、どんな経験なのか? 

 では、対する「既存事業」の方はどうか。こちらは「新規事業」に与えた規定を一つ一つひっくり返していけばいい。

 まず、「既存事業」が「既存事業」と呼ばれるのは、それが収益を生み出す仕組みをすでに確立しているからだろう。

 とすれば、そこには「正解」がある。商品を売るにしても、どのような顧客に、どのような訴求をすればいいか分っている。極端な場合には、既存の顧客のところに定期的に顔を出すだけでもいいのだ。

 このように「正解」がある既存事業では、新規事業に比べて「上下関係の強化」が生じる可能性が高い。

 というのも、もう「正解」がある以上、新たに入ったメンバーはすでに「正解」に習熟している先輩に教わり、その指示に従った方が効率がいいからであり、新しいメンバーの自主的な判断などは、例外的な場合を除き、確立された既存事業の立場からは、お呼びでないからである。

 「上下関係が強く、自主的な判断が尊重されない職場です!」は、決して発されることのありそうにない、よろしくない印象の言葉だが、ここでも新規事業の規定をひっくり返すことで、この言葉の裏面にある既存事業のメリットを見いだすことができる。

 すなわち、そこではメンバーは「上の指示」や「これまでのやり方」に従って働くわけで、メンバーは大きな責任を負う必要がないし、また、それが「正解」である以上は、仕事において失敗するリスクも低い。

 そして、利益を生み出すシステムが確立されているために、当然、待遇も安定しているし、近い将来に事業がなくなってしまうというリスクも(一般に新規事業よりは)低いだろう。事業が終わるのは、環境の変化が生じ、それに適応できなかった場合のみである。

 そして、確かに自主的な判断は要求されないにせよ、事業によって収益が上がるということは、誰かにその事業が役立っている証拠であり、その事業に参与することで、人は「社会貢献」「他者の役に立っている」という実感を精神的な利得として得られるはずなのだ。ただ、その代わりに欠けているのは、事業の大きな成長に対する期待感である。

 新規事業をほとんど裏返しただけの、こうした諸規定によって、私たちは「既存事業」という経験に、もちろん、粗いものではあるが、やはり一つの輪郭を与えることができる。

 まとめれば、既存事業とは、収益を上げる方法がすでに確立されている事業であり、そのため「正解」があり、メンバーの個別の判断による「試行錯誤」ではなく、「上からの指示」や「これまでのやり方」に従った、定常業務の遂行が求められる事業である。

 そこには強い上下関係が立ち現れ、自発的な判断が尊重されないが、それは仕事における失敗の不在や、金銭的安定さといったメリットと表裏一体であり、さらにそこでは、仕事において現に社会貢献しているという実感を精神的利得として得ることもできる。

 ただ、その代わりに、事業と自分が大きく成長し、社会に変化をもたらすという期待はあまり持てないのである。

3、「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」とは何か? 

 こうして、「新規事業」と「既存事業」についてイメージを膨らませたことで、「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」を理解することが可能になる。

 そもそも、どんな「既存事業」もはじめは「新規事業」である。では、どうやって「新規事業」は「既存事業」となるのか。もちろん、「正解」、すなわち、収益を生み出す方法を見出し、それを確立した仕組みにすることによってである。

 「新規事業」が、それ自体、いわゆる起業としてなされる場合には、これ以外の出口はない。収益が上がらなければ会社が潰れるだけだからである。

 だが、それが既存事業を持つ企業内部の「新規事業開発」として行われる場合には、話が変わってくる。そこでは、会社内の諸々の「政治」の帰結として、「新規事業」が社内で生き延びる道を見つけ、「あまりに早く」、つまり「正解」を見いだす前に「既存事業」のようになってしまうことがありうるのだ。

 そして、私の考えでは、私が当時働いていた会社で経験したのも、そのような事態だった。

 この「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」の経験は、新規事業と既存事業の「悪いところの組み合わせ」である。一つ一つ見ていこう。

 まず、そこにはなぜか「正解」がある。そこでは、収益を生み出す方法は確立されていないのに、とにかく、日々の仕事を回していく、いわば「運営」の仕組みだけは確立されたものとしてある。

 「正解」がある以上は、上下関係がほとんど必然的に強化され、メンバーの自主的判断の優先度は下がる。というのも、先輩ほど「正解」を身につけており、より新しいメンバーはそれを教わり、それに従うしかないからだ。

 だが、それが「正解」として立ち現れてくるとしても、それは実際に収益を生み出すような「正解」ではない。

 だから、そこでは、社内新規事業として収入自体はさしあたり保証されているにせよ、将来的な安定性はないし、現に社会に貢献しているという「やりがい」もない。そして「正解」が君臨して試行錯誤が抑圧されているため、自分や事業が成長することへの期待も抱くことが困難なのである。

 つまり、そこには「既存事業」「新規事業」、どちらの精神的な利得もない。

4、なぜ「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」が生まれるのか?

 なぜ、このような事態が生まれてしまうのだろうか。第一の前提は、先に見たように、これが他のしっかりした既存事業に支えられた「社内新規事業」においてのみ可能であるという点である。というのも、そうでなければ、収益を上げない限り、「事業 = 会社」が潰れてしまうからである。 

 ただ、社内新規事業であれば、必ずそうなってしまうというわけでもない。ここで分水嶺となるのが、何らかの社内制度上・政治上の問題のために「結果責任が追求されない」という事態が発生するかどうかだろう。

 何らかの理由で新規事業について、収益の有無という結果に対する責任が適切に追求されない場合、新規事業が収益の上がらないままダラダラと続き、年月の経過によって、いつのまにか収益の立たないまま、「既存事業」のようになってしまう、「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」となってしまう可能性が生じる。

 私が会社で経験した事例に関していえば、そこはちょうど私が入社した時期に、人を増やして50人ほどの規模になった会社で、ようやっと経営層とメンバー層の二層構造が、経営層と中間管理層(ミドル・マネジメント層)とメンバー層の三層構造へと変化しつつある段階だったことに、この問題の発生の一つの要因があったように思う。

 その三層構造がまだきちんと確立され、機能していなかったことに問題の根本があったと思われるのだ。

 もう少し具体的に見ていこう。その問題は思うに「ミドル・マネジメント層の権力の肥大化」として定式化できる。

 おそらく理想的な三層構造においては、中間層たるミドル・マネジメント層が事業部長となり、メンバーを引っ張って、事業の結果に対して責任を負う。その責任は第一には経営層に対して負うのであって、経営層が事業部長の責任を追及し、必要であれば、人事の変更や事業の撤退などの判断をすることになる。

 しかし、その会社の場合は、その三層構造が明確になっておらず、事業部長クラスと経営判断をする経営層が重なり合っていた。だから、新規事業の撤退や人事交代等の重要判断が、「事業部長クラス = 経営層」の同輩たちのお互いに対する配慮や牽制によって、ほとんど不可能になってしまっていた。

 配慮とは、お互いに対する思いやりから批判をしないということであり、牽制とは「お前が俺を批判するなら、俺もお前を批判するぞ」というような相互抑止による批判の予防である。

 このようなことの結果として、「ミドル・マネジメント層 = 事業部長クラス」の責任が追求されず、その意味で権力が肥大化し、その事業部長のもとでの「あまりに早く既存事業となる」という形での「新規事業」の存続が可能になってしまっていたのである。

5、「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」の会社へのリスクとは?

 原因論の次は、「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」の生み出す帰結、そのリスクについても考えておこう。

 私が勤めていた会社は既存事業がしっかりしており、その既存事業が大きな利益を上げているうちに会社の次代を担う新規事業を立ち上げて軌道に乗せようと、複数の新規事業を立ち上げていた。

 その過程で、新卒社員を採用することもさることながら、メガベンチャーや、商社などの大手企業からの転職者も採用していた。そして、新卒の多くとメガベンチャー出身者は「新規事業」に、大手企業出身者は「既存事業」に、それぞれメンバーとして配置されていた印象がある。

 この状況において、以上の「ミドル・マネジメント層の権力の肥大化」と、それが生み出す「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」という事態のリスクは、いかなるものだろうか。

 私は、それを三点における離職リスクとして把握していた。

 すなわち、第一に、「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」に下位メンバーとして配置される新卒社員は、第3節でみた「自主性の不在、社会的意義の不在、成長(期待)の不在」という、この種の事業の悪い側面をもろに経験して、離職を考えるようになる。

 続いて、第二に、新規事業にいわば上位メンバーとして配置されるメガベンチャー出身の転職組としては、事業そのものの新陳代謝が働かないために「自分の番が来ない」ことに不満を持って離職を検討する。というのも、彼らが前職より小さいベンチャーに来たのは、やはり「事業責任者」になって、事業立ち上げをすることが大きな目的だからだ。

 最後、第三に、既存事業に配置される転職組からすると、「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」がダラダラと存続する様は、単純に気持ちのよいものではない。というのも、既存事業の側からすれば、新規事業は自分たちが稼いだ金で食っているのであり、新規事業の側が精一杯やっていることが、一般にそれを許容できる条件なのだから。

 「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」は、その条件を明確に裏切っており、それが改善されない限りで、既存事業のメンバーとしては、離職を考える理由が存在するわけだ。

 そのようなわけで、要約すれば、私は会社に勤めていた当時、自分が社内で経験していた違和感ないし不全感から出発して、それを生み出す状況を「あまりに早く既存事業となった「新規事業」」という概念でもって捉えた上で、その原因を三層構造の未確立による「ミドル・マネジメント層の権力の肥大化」に求め、その事態の帰結として生じるリスクを、会社を揺るがしかねない「三点の離職リスク」として把握することになったのである。

6、最後に、私の退職について(です・ます調へ戻る)

 実は、退社する前、私はこの議論の全てを社長に一対一で伝えるためのサシ飲みの機会を、社長に作っていただきました。そこで社長は以上の理屈を、それなりに興味深そうに聞いてくれたものの、実際には会社には大きな変化は起こりませんでした。それは社長の気質によるものなのか、あるいは私の理論が十分に深くなかったからなのか、そもそも組織にあってそれほど早く制度を変えることが不可能だからなのか、理由は分かりません。

 とにもかくにも、そのことをもって、私は半年の会社員生活を終えました―そんな風にまとめると、少しばかり格好がいいのですが、実際には、退職の最大の原因は、私が会社組織なるものとは全く合わないという、ただその一点だったように思います。

 その点では、「せっかく雇ってもらったのに、こんなに早くやめてしまって申し訳ない」という気持ちは、やはりこんな私でも、持っていないわけではないのです。

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