なぜ「ポジティブ・シンキング」は存在しないのか?—プラトン的な「知・情・意」の区別から

 「ポジティブ・シンキング」という言葉がしばしば聞かれるが、そういったものは本来的には存在しない。なぜか、そのことを語るためには、私たちはプラトン以来の伝統的な人間の能力区分に立ち返らなければならない。

1、プラトンによる「知・情・意」の区別 

 西洋哲学の本格的な始まりに位置するプラトンは、その著作『国家』のうちで、後々にまで強い影響力を持った人間の能力の三分説、すなわち、「知・情・意1)プラトンの場合、正確には、知性と欲望と気概だが、これが知・情・意の基礎となったことは間違い無いだろう」を提起した。人間の能力は、知性と情動と意志に三分されるというのである。

 これは人間一般の能力区分として、どんな人間も三つを併せ持っているのだが、プラトンがこの三分説を国家にもアナロジカルに適用するとき、この三能力のバランスが人によって異なると想定されていることが明らかである。

 すなわち、プラトンは、その国家の解説において、知性を優勢的な能力として持つ「哲学者」が支配階級となり、その指導下で、情動を優勢的な能力として持つ「労働者」と、意志を優勢的な能力として持つ「戦士」が国家を作るのを理想とみなすのである。

 とすると、哲学者たるプラトンにとって、このような「知・情・意」の関係が国家の理想であると同様に、個人の生においても、知性が情動と意志の手綱を握るのが理想なのだが、その実現性は人によって必然的に異なることになるだろう。

 というのも、人によって、どの能力が優勢的に形成されているかには、大きな差異があるからであり、それに応じて、どの能力が優位に立つかも変わるはずだからである。

 すなわち、知性優位の哲学的人間、意志優位の戦士的人間、情動優位の労働者的人間が存在するわけだし、二番目に強い能力によって、それぞれの下位カテゴリも存在することになるはずだ。

2、「知・情・意」、それぞれの本質への問い 

 それはそれとして、「知・情・意」とは、それぞれ本質的に何なのか。私なりに定式化を試みてみよう。

 まず、大きな切断線が「知」と「情・意」の間に引かれなければならない。

 「情」と「意」は、以下で論じるように互いに対照的な性質を持つが、他方で、「知」と対比されたときに、これらが持っている共通点は、「主観的」な機能であるということである。それに対して、「知」だけが客観的な機能、まさに「客観に即そう」という機能なのである。

 では、「情」と「意」はというと、どう違うのだろうか。これはさまざまに特徴付けることができるが、たとえば、「情」は「自己」を「状況」に合わせる機能、「意」は「自己」に「状況」に合わせる機能ということができるだろう。

 情動ないし感情とは、人間が、その置かれた状況に応じて、自然な仕方で感受するものであり、それはとりもなおさず、人間が自分が置かれている状況に対応するための機能である。

 例えば、人間は死の危機に見舞われれば、そこに「恐怖」という感情を抱き、即座に逃げ出そうとすることで状況に適切に対処するのである。

 他方で、「意志」は、「情」がこのように状況に対する自然な応答の機能、その意味で「状況」に合わせる機能であるのに対して、「状況」を「自己」に合わせるような機能である。

 プラトンにおいて、「意志」が戦士階級に割り当てられていたことを想起しよう。人間は死の危機に見舞われれば「恐怖」に駆られ逃げ出したくなる。

 しかし、ここで逃げ出しては戦士失格である。戦士は、この自然な恐怖感情を抑えこみ、敵に立ち向かう。勝利という「目的」のために。おそらくは何らかの方法で自分を鼓舞し奮い立たせることによって。

 ここで、「自己」が抱える「目的」の達成のために、「状況 = 情動」を「自己 = 目的」に合わせて抑えこんでいるのが「意志」の機能である。

 「意志」は、「一つ」の達成されるべき目的のために、「現在」の状況によって生み出される自己の「多数」の感情を統御し、状況を目的に向けて変革していく、「未来」志向の「能動的」機能である。

 それに対して「感情」は、そのときどきの状況に応じて多様な仕方で生み出され、その状況にあった行動を人間にとらせる「現在」志向の「受動的」機能である。

 おそらく、人間の「感情」と「意志」は、それぞれ、あらゆる有機体(生命)に必須の機能である、(危険の回避など)環境の変化に対応して適切に行動するための機能と、そのなかで(栄養の確保など)何か目的を達成するための機能の、非常に発達した形なのだろう。

 そして、最初の「主観的」という特徴づけに戻るならば、これらはあらゆる有機体に必須のものとして「主観的」である。有機体とは、世界を自らの立場から構造化、つまり、自らの「環境」となすものとして、「主観性」なるものをはじめて世界に導入するものだからである。

3、「知」の機能の本質を求めて 

 さて、では「客観性」の機能として規定された、「知」の本質はどこにあるのか。「知」の働きは「思考」と称されるから、これはとりもなおさず、「思考」の本質への問いでもある。

 先ほど、有機体によって、世界に「主観性」が導入されることが論じられた。有機体は自らの観点によって世界を見るからであり、それによっていわば世界を自らの環境へと変化せしめるからである。

 だが、ここにはまだ「客観性」がない。原初的な有機体にとって、自分に見えているものがすべてであり、それはいわば「主観 = 客観」である。では、「主観性」と区別される「客観性」は、この「主観 = 客観」からいかに生じるのか。

 「思考」ないし「知」の本質が、「客観性」にあるとすれば、この「客観性」の起源にこそ、私たちは「思考」と「知」との本質を見いだすことができるはずだ。

 私なりの答えをすぐに述べてしまおう。それは有機体の自己関係化、「私」への指示によって生じるのである。

 というのも、単に世界が「見えている」だけでなく、「私が見ている」と思ってはじめて、それが「単に私に見えているだけ」、つまり、「主観的」であるかもしれないということが理解されるからであり、したがって、現に見えているものを超えた「客観性」の次元が開かれるからである。

 有機体は、自己関係化ないし自己指示、つまり、「私」なるものに気づくことによってはじめて、「私」が見ていることを知り、現に見えているものとは違うもの、「客観的」なるものの存在を覚知することができる。

 そして、「客観性」に即することが「知」ないし「思考」の本質だとするなら、結局、「思考」ないし「知」の本質とは、有機体の自己関係であり、ヘーゲル風にいえば「反省」、現代風にいえば「メタ認知」である。

 私たちは、常に、「私が見ている」「私が感じている」「私が考えている」という風に自己参照することによって、つまり、自らを省みることによって、自らが現に囚われているものを単に「主観的」なものとして相対化し、それを超えた客観性に「即する」、あるいは少なくとも客観性を「求める」ことができるようになるのである。

 ところで、このように「知」が「客観性」に即するものとして、必然的に「主観性」を相対化するということから、「知」の本質的に「否定的」な性質が帰結する。「知」ないし「思考」は、さしあたって、主観的でしかあり得ない有機体にとって、まずもって「否定的」に作用する。

 客観性の機能である知は、主観的な機能である感情や意志を、まずもって主観的なものに過ぎないものとして相対化し、それらを客観的な状況に即して限定する。このような諸機能の関係性のゆえにこそ、プラトンは「知」に「感情」や「意志」の手綱を握るという役割を与えたのである。

4、なぜ「ポジティブ・シンキング」は存在しないのか? 

 さて、こうしてようやく本題に戻ることができる。もはや明らかなように「思考」は本質的に否定的な(ネガティブな)性質を持つために、「ポジティブ・シンキング」なるものは形容矛盾であり、本来の意味では存在しないのである。

 しかし、それは盛んに語られてはいる。最後に、そのことの理由を解明しておこう。

 プラトンにとっては残念かもしれないことに、現実にあっては、知を優勢的な機能としている哲学者たちは支配階級ではなく、むしろ社会的には周辺化されているのが常であり、しばしば支配的なのは「意志」を優勢的機能とする戦士的な人々であって、したがって、「意志」優位の言説こそが社会において優越する。

 「ポジティブ・シンキング」とは、このような状況において生み出されたところの、「意志」に従属させられた「思考」の形態であり、それは「客観」に即するという知の本来の機能ではなく、主観的な「意志」を鼓舞するために、その人にとって都合のいい事実のみを重視するという思考のあり方なのである。

 もちろん、このように言ったからといって、私は「ポジティブ・シンキング」について、全面的に否定的な価値判断を行なったつもりはない。

 それは言葉としてはやや奇妙ではあるものの、それ自身の利点がないわけではないのだ。実際、冷静に客観的に状況を判断することによって、自らに不利な状況が分かって意気沮喪してしまうより、自分に有利な事実のみに着目して意志を鼓舞する方が、結果として良い状況をもたらすことができる可能性が高いからである。

 この点では、多くの場合に不可能な理想は、一方で哲学者であり、他方で政治運動家であった、イタリア共産党の創設者の一人、アントニオ・グラムシのモットー、「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」だろう。ただ、これは人間において大抵の場合、どちらかの能力が優勢することにより、達成することが難しい理想なのだが。

 そういうわけで、「ポジティブ・シンキング」なるものに、もし批判されるべきことがあるとすれば、「ポジティブ・シンキング」こそが「シンキング」そのものであり、「思考」の本質であるとされる場合のみである。それは明らかに人間的諸能力の区分を無視した、「意志」による「知性」の座の簒奪行為なのだから。

References   [ + ]

1. プラトンの場合、正確には、知性と欲望と気概だが、これが知・情・意の基礎となったことは間違い無いだろう
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