再考「人間類型論」(2009年~2014年)

 こちらでは、本当に懐かしいものですが、学部生時代に友人と作った議論、人間を「一般的価値の受容」「主体性」「対話性」の有無で8類型に分ける、「人間類型論」を紹介します。いま読んでも、それなりに興味深い着眼ではあると思うためです。

1、人間類型論とは何か(2009年) 

 人間類型論とは、私が大学で弁論部に所属していた際、同期で部長だった友人S氏を中心に、私が少し口を出すことによって成立した人間の類型化の議論である。この人間類型論は三つの観点、その「有無」から人間を分類するため、そこにはさしあたり8つの類型(2^3個)が存在することになる。

 さて、三つの観点を見ていこう。

 第一は、その人が現代の社会に通用している一般的・常識的な諸価値・諸言説を全般的に承認しているかどうかという軸である。これを一般的諸価値と呼んでよいだろう。

 第二は、その人が自らの行動を律する何らかの規律を獲得しているか否かである。何らかの価値、目標、ルーティーンなどを各人が「自ら自覚的に」保持しているかが問題化される。これは自己規律と呼ばれてよいだろう。言い換えると、その人が主体化しているか、主体的かということである。

 第三は、対話性である。対話性があるとは、自らの抱いている諸価値や諸前提を批判的に相対化できることである。それによって異なる価値を抱く他者との一定の対話が可能になるのである。

 この対話性の基準においては、現実に立場が変更する可能性が存在することまでは要求されないと考えてよいだろう。それを要求する場合、この基準を満たすものが極めて少なくなるので、分類法として不適であるからである。ここでは、自らの前提を絶対化せず、そうすることで他者との会話の余地が存在することが要請されるのみである。

2、諸類型の紹介 

(1)◯◯◯:理想家 

 全ての基準を満たしている(満たしているということは、必ずしも価値的に上位であることを意味しない)ような類型は、理想家と呼ばれて良いであろう。彼は一般的な諸価値を受け入れ、そこにおいて自覚的に主体化しつつ、他の諸々の立場にも理解を示す。

(2)○○✖️:狂信家 

 理想家から対話性が抜けると、一般的諸価値とそれへと同一化した自分の立場を絶対化する狂信家となる。

(3)○✖️✖️:大衆? 

 狂信家からさらに主体性が抜け落ちた類型である。名称については確固たるものは未だ存在しないが、単に一般的諸価値に受動的に盲従するというところから、大衆と呼んでよいと思われる。

(4)○✖️○:マージナル類型 

 主体性のみが欠けている本類型は、とりあえず一般的諸価値を是認しているが、それが主体的なものではなく、さらに対話性もあるために、これから立場が大きく変化していく可能性がある類型である。それゆえマージナル(境界的)類型と呼ばれる。入学当初の大学生はこの立場が多いと推定される。

(5)✖️○○:革命家・変革者 

 一般的諸価値を奉ぜず、自己規律、主体性と対話性を併せ持つ人間は、現状とは異なる何らかの理想を保持し、またそれを広めていこうとする、広めていける人間として、革命家、あるいはそれが強すぎれば変革者と呼ばれてよいだろう。

(6)✖️○✖️:独善家 

 一般的諸価値を奉ぜず、自己規律が有るが対話性の無い人間は、自己の信念を独断的に保持するものとして独善家と呼ばれる。

(7)✖️✖️○:冷笑家 

 一般的諸価値を信ぜず、さらに自らの規律を持たないが対話性だけを持っている人間。このような人間には、一切の積極的な思惟も行動も不可能である。

 そこから生まれるのは、一切の価値を解体し、梯子はずしをしていくような空疎な言辞のみであり、彼らは正しく冷笑家と呼ばれなければならない。

 ちなみに本類型論の発案者たる部長ならびに協力者たる私は本類型に属すると推定された。一般に、一切の価値を否定する冷笑は、主体の強いメタ志向に由来するという面があり、それ故、このようなメタな視点から人間を類型化することを試みる人間が冷笑家であるのには理由があるといえる。

(8)✖️✖️✖️…??? 

 このような類型は存在が疑問視された。それ故「名前はまだ無い」。

3、人間類型論と弁論部 

3-1、弁論部の活動の各人に対する事実的影響に関する部長の理論 

 部長S氏が本類型論を構想していた当時にあっては、本類型論は、弁論部は冷笑家を産出するという主張を伴っていた。

 その理屈はこうである。まず合理的な根拠に基づく討議というディベート的訓練が各人の合理的な検討能力を発達させ、対話性が高まるが、それに伴って必然的に一般的諸価値に対する批判的な検討が生じ、それに対する信頼が揺らぐ。

 続く弁論において、自らの信念の検討と構築が行なわれるが、実はそこではそのような価値や信念の構築は果たせず、泥沼にはまってしまう。かくして✖️✖️○の冷笑家が誕生するというのである。しかし、現在では本理論は実証的には支持されないと見られている。多分にS氏の個人的経験と、私たちの期の部の雰囲気に影響された理論であった。

3-2、弁論部の活動の目標に関する私の考え 

 弁論部の活動の目標は、一般的に言って主体性の確立と対話性の獲得にあるといってよいと思われる。前者に主にかかわるのが弁論であり、後者に主にかかわるのがディベートである。そういった活動を通じて、主体的に社会に関われるような人間を作り出すところに、弁論部の中心的意義が存在するように思う。

 以前私が、次期部長のM氏と「教養」について話し合った際、私は教養の中心的な意義を主体性の確立に求めたのに対し、M氏はそれを様々な立場との対話を通じた自己相対化に求めた。

 このような立場の差異は、主体性の確立を渇望する私と、弁論部の活動を通じて対話性を獲得し、独善家から変革者(冷笑家に近いという説もある)へと変化したM氏との経験と立場の差異によって説明されるだろう。

4、たまねぎ的人間観をめぐって 

 「たまねぎ的人間観」とは、私や部長S氏が3年か4年の時、仲の良い先輩も参加して飲み会が行われた際に、その場に居合わせた3人の大学生活の一種の総括として出て来た考えである。

 すなわち、大学生活において自分を掘り下げていけば何か見つかるのではないかと社会的価値だとかの外皮を一枚、また一枚と剥いていったが、たまねぎの皮を剥くのと同じように、一向に皮と区別されるような「身そのもの」には辿り着けず、最終的にはすべてを剥き終わってしまい何も残らなかった、ただ、もう社会から見て「食えない」ゴミであるという事実が残っただけであるという諦観的な思いである。

 このような思いは、冷笑家が冷笑の果てに冷笑しきれない現実、つまり、社会に何らかの仕方で適応しなければならないという現実にぶち当たった時に生ずるのだと考えられる。

 ここに冷笑家の弱みがあり、このような現実にぶち当たった時(そして人は必ずこの現実にぶち当たるのだが)、冷笑家は自らのうちに頼るべき基準を持たないために、一般的価値にしぶしぶながら迎合することしかできないのである。これは類型論からみればマージナル類型ということになる。

 冷笑家は不可避的な現実にぶつかると、マージナル類型として社会的な適応をせざるを得なくなるのだ。

5、今から振り返ってのコメント(2014年) 

 今振り返ってみると「冷笑家」類型の記述には少々問題があるように思われる。「冷笑家」は一切を懐疑し突き放し相対化する立場なのだが、ここではそれを自分自身にも向けすぎて、「冷笑家」についての記述が冷淡になっているように思われる。もっと愛をもって記述するべきだった。

 というのも、「冷笑家」という語は、自らを安全な高みにおいて一切を馬鹿にする高踏的な立場を想像させるが、私たち自身に関して言えば、そういった面が無かったではないにせよ、他方で、それなりに切実に一切の懐疑的な検討を超えて自分が肯定できる立場を探していたことも事実だったからである。

 そこには安全な高みに安住するような嫌みなところはそれほど無かったのであり、それよりはむしろ、追い払いえない懐疑に際会しての苦悩があったのである。このことを考慮に入れていれば「冷笑家」に対してもっと愛のある記述が出来ただろうと思う。

 もう一点いっておきたいことは、「冷笑家」的な立場と、その後の私の立場との関係である。私の現在の立場は、端的にいって「冷笑家」の立場を可能にしているような、つまり、一切を突き放し、そこから距離をとることを可能にしているような人間性の構造を問うことであり、そのような構造のうちに、それと関係することでその他の一切から距離をとること、つまり冷笑が可能になっているような「絶対的」な対象との不可避的な関係を見出すことのうちに存していると表現することが出来るだろう。

 実際、私たちが一切の肯定的立場から距離を取れるのは、それらに還元されない何ものかとなんらかの意味で関係づけられているからでしかありえない。

 私が以前と変わっているところがあるとすれば、無限の相対化運動が可能になるためには、ある絶対的な対象との関わり(を想定すること)が必要なのではないかと考えていることであり、その不可避性を認識しようと、そしてそれとの自覚的な関わりへと人間を開こうと試みているということだけである。

 結局、哲学の使命とは、人間を神的なものへと開くこと以外には存在しないように、私には思われる。

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