フッサールとハイデガーの問題構成の差異と連関

0、はじめに

 本稿はフッサールとハイデガーの試みの差異について、私なりに一つの定式化を目指すものであり、そこから出発して私の課題を規定しようと試みるものである。

1、フッサールの認識論的問題構成

 フッサールのもともとの試みは以下のように特徴付けることができるように思われる。以下基本的に『現象学の理念』をもとに議論を展開する。

 出発点は認識論的懐疑である。認識は対象に的中しているのか?私たちは私たちに見えるものの外にいかなる意味でも触れることができず、そのため結局のところ私たちに見えているものが見えているもの「自体」に的中しているかどうかは確信できない。こうして一切の客観的認識はその客観性において疑わしいものになる。

 フッサールの道は、ここでデカルト的懐疑を変奏しつつ、私たちに対する「見え」を「超」えた一切のもの、見えるもの「自体」、つまり、対象、ひいては世界の「超越」ないし「存在」をさしあたり捨象することである(「還元」)。

 見える「(超越的に観念された)モノ自体」については本当のところ分からない、ただそれを捨象した単なる「見え」は「内在」として確実である。見えているりんごの存在は確実ではないが、「私はりんごを見ている」は確実なのだ。この確実なものから一切を考え直さなければならない。

 さて、ここで決定的なポイントは「内在」的な「見え」のうちには「超越」は定義上存在しないが、「超越への関係」、「超越」への指し示しは、ということは、「超越」という「意味」は存在しているということである。「内在」のうちで、「超越」として考えられざるを得ないもの、「超越」という「意味」を必然的に伴うものが成立してくる。

 「内在」は絶対的に確実なものの領野なのだから、ここで立ち現れた「意味」においてこそ、「超越」的なもの、それに即して「客観的認識」の「客観性」が保証されるような「超越」の正しい「意味」、「超越」のいわば正しい「存在論的ステータス」を理解しなければならないし、そのことを通じて自然科学などの客観的認識が決定的な基礎づけを得るのである…。

 自然科学の認識の具体的内容は変わらないだろう、ただその「客観性 = 超越への的中」の意味が、「超越」の意味の正しい理解を通じて、書き換えられるのである。

 さて、それはそれとして、この「内在」の領野が「純粋意識」であり、そこで「超越」が構成される「そこ」という意味で「超越論的」な「意識」と言われる。

 この「還元」によって獲得された領野は、こう言っていいと思うのだが、「超越」のみならず、一切のものの「意味」がそこで構成される領野、少なくとも、そのように扱いうる領野である。

 もちろん、自然的な態度において私たちは様々な自然的な意味に取り囲まれて生きているが、「還元」を経て、純粋に「見え」へと変容させられた領野において、一切の「意味」が確実なものとして汲み取られ直すことができるのだ。

 ところで、「超越」とは、結局「ある」ということ、「存在」ということ(のもっとも単純な理解の一つ)である。とすれば、超越論的な意識において「超越」の「意味」が構成されるとは、そこで「ある」ということの「意味」が構成される、「ある」ということが「理解」されるということ、「存在了解」がなされるということである。

 とすれば、ここからハイデガーへの道筋をつけられるだろう。ハイデガーは「存在了解」の様々なあり方を語るが、それはフッサールが「超越」ないし「志向性」の様々なあり方を語ることと完全に並行しているように思われる。このレベルに両者の学の基礎づけの理念がある。

2、ハイデガーの存在論的問題構成

 続いてハイデガーとの対照を試みてみよう。まず目を引くのは認識論的問題構成の不在である。フッサールは認識の「真理」性の懐疑から始め、認識が「超越」に的中しているのかを「問題」とし、超越論的還元を通じて「超越 = 存在」の正しい「意味」を理解することができるとすることで、この「問題」を「解決」しようとした。この懐疑からして「真理」はさしあたり「的中」として理解されているといえよう。

 対するハイデガーは、むしろフッサールの「解決」から出発したと言えるかもしれない。ハイデガーにとってはそもそも「存在 = 超越」は、人間の「存在了解」でしかない、いわば人間が構成する「意味」でしかないのである。だから、根源的な真理は「的中」にはない。それは、むしろ、人間が「存在了解」を引き受け、そのために世界が「ある」という仕方で立ち現われることであり、この世界の開けそのものが根源的な真理と名指されるのだ。

 さて、第一次的にはこのようにフッサールとハイデガーとの差異を際立たせることができると思われるが、他方で『存在と時間』の歩みはやはりフッサールの歩みと似ているとも言える。フッサールは自然的態度にたいして「還元」を遂行し、そこで一切の「意味」を根源的に再獲得しようとする。

 ハイデガーもほとんど同じであり、人間が現存在として常にすでに持っている、いわば「自然的」な「存在了解」を「不安」ないし「先駆的決意性」を通じて「ラディカル化」し、根源的に再獲得しようと試みる。

 では、結局のところ、何が違うのだろうか。こういうことは出来ないだろうか。フッサールの場合、少なくともここまで定式化してきた思考の構造の範囲内では、自然的態度から「還元」を行い、いわば「超越論的」な領野へと「はしご」を登ると、そこに「根源」が見出され、そこから一切が再始動する。そして「還元」という「前史」、その「はしご」はなかったことになる。

 だが、ハイデガーはいわば、この「はしご」の存在を忘れられないとはいえないだろうか。たしかにハイデガーにおいても超越論的構成から一切が始まるといえる次元がある。超越論的構成、つまり、超越論的な領野における意味の構成のハイデガーにおける対応物は、もちろん、「存在了解」そのものである。

 たしかに「存在了解」以前には定義上、何もない。だが、「存在了解」を行うのは、それこそ「自然的」に理解された「人間」でもある(存在論の存在者的基礎)。こうしていかにもハイデガー的な問いが可能になる。

 そこにおいて超越論的構成が可能になるためには人間はいかなる存在者でなければならないか?人間が「意味」の存在者であるためには人間はいかなる存在者でなければならないか?人間が「存在了解」をしうるためには人間はいかなる存在者でなければならないか?

 そして、ハイデガーにとって「超越」とは(これがフッサールの語法とまったく無縁というわけではないことは既に明らかだろうが)「存在了解」をしていること、(次の言い換えはもうフッサール的ではない)「存在者」から「存在」へと「超越」することなのだが、この「超越」が可能であるためには人間はいかなる存在者でなければならないか?

 以上のようにいうことで、ハイデガーのフッサール宛書簡の意味は解明されたと言えるだろう。

3、いかに態度をとるべきか

 とりあえず、この二つの立場については、やはりハイデガーの立場をとるべきだと思う。というのも、超越論的還元によって根源に至るということが一方で説得力を持っているにせよ、他方でやはりなぜ還元は自分自身を忘れることができるのか、還元の歴史が忘却されうるのかが明らかではないからである。純粋意識の純粋性には濁りがある、その濁りとは自らの純粋性を作り出す行為そのものである。

 だが、この立場取りは何を意味しているのか?後期ハイデガーの答えは、もちろん、「存在者」でも「存在(者性)」でもなく、両者の差異そのもの、存在論的差異を重視するという立場である。

 もちろん、自然的ないし自然科学的に「存在者」を全てと見なしてはならない。だが、存在者を存在者として現れせしめる根源的な意味としての「存在(者性)」を特権化するべきでもない。自然的-動物的人間を全てとみなすべきでもないが、超越論的意識を一切の根源として特権化するべきでもない。

 問題は両者の分割と統一そのものであり、だから「現存在」は最終的に「Austrag」として、つまり、ある分裂の動勢を持ちこたえ、それを一つに繋ぎとめるものとして、捉えられなければならないのではないだろうか。

4、私の問い―いつもながら自己意識について

 そして、私において、この問題は―本当にこれは正しい言い換えとなっているのだろうか?―やはり、自己意識の生成と構造への問いとして問われなければならない。自己意識とは、意識が反省するとは、いかなる事態なのだろうか。ヘーゲルによれば、自己意識は分裂しつつ統一的であるものの典型である。

 以前、明らかにしたことだが、デカルトにせよ、フッサールにせよ、見えるものは本当にあるのかと問うている。このことの前提は、見えるものとあるものとの区別であり、その可能性の条件は「見る」ということ自身がすでにして見られていること、すなわち、自己意識、意識の反省性である。

 私たちが、自らが見ているのだということを見ていなかったら、見えるものとあるものとは区別され得ないだろう。彼らの懐疑は自己意識の存立を前提としている。そしてどういうわけか、彼らが懐疑によって確実なものを確保する仕方も、自己意識の明示的遂行である。

 それにしても、意識は自己意識より単純である。というのは、自己意識は意識が意識自身を意識するという、意識の特殊様態であることは明らかだからである。だから、自己意識は意識を前提とし、意識が自己意識となるプロセスを前提とする。

 だが、いかにして意識は自己意識となるのだろうか。一切は意識において現れる。だが、意識自身は意識にはさしあたり現れていない。いかにして、一切の現れるものだけではなく、それらがまさに現れているのだということ、一切の現れの場そのものが、意識に現れうるのだろうか。

 私が以前フロイトの自我論として取り扱ったのは、この問題についての一つの仮説である。そこで私はフロイトの立場を、「欲動(=身体!)」と「幻覚(=想像力)」とを自己意識を可能にするものとして取り扱うものとして再定式化した。

「欲動」のない存在、何かを欲しない存在は、ただ立ち現れてくるものを超え出て行かない。おのずと立ち現われるものを立ち現われるものとして引き受けるだけである。だが、欲動のある存在は、おのずと立ち現われるものに(場合によっては)満足しない。

 そして「幻覚」能力によって、自らが欲しいものを好き勝手に「見る」。このことが、彼に「見えるもの」と本当に「あるもの」との区別を産出可能にする。幻覚的満足の経験が挫折し、「見えるもの」が本当は「ない」ことにより、「見えるもの」と「あるもの」との落差に直面するとき、「見えるもの」が「見えるもの」でしかないこと、全ての現れには「見ているもの」がいること、つまり、「見る」ということそのことが「見られる」原初的可能性が与えられるのである。

 「見る」ということが「見られる」こと、このことによって、単に「見えているもの」と本当に「あるもの」とが区別されうる、つまり、主観と客観の区別が可能になる。

 そして、「見えているもの」の中に、「見ているもの」を局在化することも可能になる。というのも、「見ているもの」があるということが知られればこそ、それをどこかに位置付けることも可能になるのだから。こうして、自己意識の生成と同時に、対象的な自己イメージへの同一化が生じうるようになるのである。

 こうして私たちの普通のあり方が可能になる。すなわち、私たちは現れているものは自分が見ているものだと知っている(「見る」を「見る」)し、その見ている自分はこの身体に属すると知っている(「局在化」)からである。見えている世界に没入しつつも、自らが見ていることを知っており、自らを見ているものとして世界のうちに位置付けているあり方、これが私たちの普通のあり方なのだ。

 それにしても、「見ること」ないし「見るもの」を「見る」とはどういうことなのだろうか。意識がはじめて自己意識になる場面を考えよう。意識は一切が現れている場所である。そこで意識自身が意識されることによって何が起きるのか。一切が現れているが、これらを見ているということ、そのことが、いまや意識に現れる。

 単純な「見ること」は見られるものに没入しているが、「見ること」を「見ること」は、「見られるもの」から「見ること」を切り離し、一切のメタレベルに立つ。もちろん、自己意識することの、この切断作用をヘーゲルは「否定性」と名付けた。だが、いまや「否定性」をより繊細に特徴付けなければならないだろう。

 単なる意識は現れてくるものに没入している。見るものを見ることは、現れてくるもの一切から自らを引き剥がし、メタレベルに立つ。これは「否定」の運動であり、そのように析出された自己意識は現れ、すなわち、「見えるもの」の中に自らの場所を持たない。それは「否定的」にしか規定し得ないものである。つまり、否定性は自己意識の運動を特徴付けるとともに、性質を特徴付ける。

 もう一歩考えてみよう。いろいろなものが見えている中で、見えているということが見られる、それは見ているものがあるということだが、見ているものがあると見ているものは、それ自身は見られえないものとして否定性である。他方で見ているものは私の身体に同一化される。前者をこそ私たちは自己意識、あるいは主体と呼ばねばならず、他方で私の自己イメージは自我と呼ぶことにしたい。

 まとめれば、自己意識はあるはずのものが「ない」というフロイト的な原初的な経験、「見えているもの」と「あるもの」を区別可能にする根源的な「無」の経験によって生じ(だが、これはもっと考えてみなければならない)、そのように生じた自己意識自身は否定の運動であり、肯定的に特徴付けられない何ものかなのである。もちろん、これをハイデガーの存在の問いとつなげることが問題である。

5、ハイデガーの「存在」の問い

 ここでハイデガーの(後期)哲学を簡単に把握してみましょう。ハイデガーのいわゆる「存在」とは、世界が意味的に経験されることを支えている根本的な意味、いわば意味の地平のことだと捉えるのが出発点としてはよいでしょう。

 世界の中には存在者たちがひしめき合っていますし、それは感性的経験を通じて知られますが、感性的経験だけがすべてなのではありません。よく言われることですが、ろうそくは燃え尽きて感性的直観の観点では全く別のものになってしまっても、私たちにとってはまだろうそくです。

 なら、ろうそくがろうそく「として」経験されること、意味として経験されることは感性的経験に還元できません。そして私にはまだ根拠がさほどわからないのですが1)あるものを「何ものかとして」了解するとして、それを命題化すれば、それは「A ist B」などとなり、必ずコプラとしての存在が現れますが、もしかしたらハイデガーはこのことを考えているのかもしれません。そしてもう一つの可能性はハイデガーが「同一性と差異」で述べていることですが、「A ist A」という仕方で、存在が諸事物の自同性を支えているという認識があるのかもしれません。あるいはまたカントとの関わりを視野に入れれば、カントがカテゴリーを(「A ist B」という形をもつ)「判断」から導出したことも考慮に入れるべきかもしれません。ただ、これはどれも少々形式的に過ぎる議論にも思われますし、また西洋語の構造に依存しているようにも見えます。、ハイデガーによると、このような意味的経験一切を支えている根本的な意味が「存在」であり、いいかえるなら、諸々の存在者が「何ものかとして」経験されることに、その存在者が「存在者として」経験されることが先立っているのです。

 「存在」の了解、私たちが「ある」ということについて何らかの理解を持っているということがまずあって、それにより存在者が「存在者として」見えてきて、その後にさらにそれらが「何ものかとして」現れうるようになるのです。

 ろうそくの例と同様、存在者は感性的な経験で知られますが、存在者が「存在者として」見えてくるために必要なこと、つまり、「存在」ということについて理解していることは、感性的経験に依存していません2)たまに考えるのですが、もし五感の一切を奪われた人間がいたら、彼は自分というものが「ある」ということを経験しうるでしょうか。生まれた時から五感の一切がなければ、それは困難かもしれませんが、多分、人生の中途からであれば、可能なのではないでしょうか。

 ハイデガーの哲学史解釈によれば、「形而上学」として総括される西洋哲学は、実体的な存在者から出発して存在が支える意味的-概念的次元へと遡行し、存在者を存在によって根拠づけることを目指す営みです。

 それは例えばプラトンにおいて現象からイデアへの、さらに「善のイデア」への遡行として現れ、カントにおいて感性的経験から超越論的カテゴリーへの、さらに「統覚の綜合」への遡行として歩まれました。もちろん、最後の第三項がハイデガーのいう存在に対応します。

 後期ハイデガーはこのような「形而上学」の歩み、存在者から存在へという歩みに対して、存在者と存在との「差異そのもの」を問うことを対置します。形而上学はこの差異を前提とし、その差異の中を動きますが、ハイデガーはこの差異そのもの、その起源と生成を問うわけです。

 とすれば、その問いは以下のように表現できるでしょう。「世界が「存在」するものとして経験されるためには、あるいはハイデガー的には同じことなのですが、世界が意味とよびうるものを持つためには、世界と「存在を理解するもの = 現存在」としての人間はいかなるものでなければならないか」、と。

 私の考えでは、その答えの核心に「否定」の契機に先行性を与えることがあります。「絶対的なもの = 存在」が、何がしか肯定的なものとしてあって、そこから「否定」の声が響いてくるのではなく、まず「否定」があるのです。

 かつて人間性の分裂は実体的な経験的領域(「現象」)と実体的な超越的領域(「イデア」)という二つの実体的な領域の差異として観念されたのですが、ハイデガーはむしろ、それを経験的な領域とそこに走る「否定-裂け目」の差異へと還元したように見えます。

 簡単に図式化すれば、経験的な領域の中に裂け目があり、その裂け目、「無」に関係付けられることで人間は「存在了解」を獲得し、存在者を存在者として、そして一般に「何か」「として」、つまり、なんらかの「意味」を持つものとして把握することができるようになった、つまり、意味的-概念的-イデア的な次元と関わるようになったのです。こうして存在者と存在との二重性、その間の差異、すなわち「存在論的差異」が確立されます。

 さて、この「否定」を優先させる変化は、哲学の課題が現実に意味的-概念的-イデア的構造による基礎づけを与えることから(これは存在者を存在に根拠づける伝統的な「形而上学」の課題でした)、意味を徹底的に逃れつつ、そうであることによって絶えず新しい意味を産出する現実性のうちの裂け目-否定性に忠実であることへと移行することを意味しているように思います。

 ハイデガーの「存在」とは、私たちの現実性を構造化している絶対的で最終的な意味であるのみならず、最終審級においては、いつまでも語りきれないものにとどまること、「sich-entziehen」しつづけることで、私たちの語りに終わりがなくなるような、そのような何ものかなのだと言えるでしょう。前者が形而上学の意味での「存在」であり、後者がハイデガーに特有の「存在」だというのが、ハイデガー自身の見方なのだと思われます。

 私の試みは、このように「否定」中心的なハイデガーの存在への問いを、ハイデガー自身は自己意識という言葉をあまり好んではいないにせよ、やはり自己意識との関連で捉え直すというものです。

関連記事:ハイデガーについて、より詳しくは、

ハイデガーの「存在論的差異」について、より詳しくは「ハイデガー」カテゴリの各記事を参照いただけますとありがたいです。

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References   [ + ]

1. あるものを「何ものかとして」了解するとして、それを命題化すれば、それは「A ist B」などとなり、必ずコプラとしての存在が現れますが、もしかしたらハイデガーはこのことを考えているのかもしれません。そしてもう一つの可能性はハイデガーが「同一性と差異」で述べていることですが、「A ist A」という仕方で、存在が諸事物の自同性を支えているという認識があるのかもしれません。あるいはまたカントとの関わりを視野に入れれば、カントがカテゴリーを(「A ist B」という形をもつ)「判断」から導出したことも考慮に入れるべきかもしれません。ただ、これはどれも少々形式的に過ぎる議論にも思われますし、また西洋語の構造に依存しているようにも見えます。
2. たまに考えるのですが、もし五感の一切を奪われた人間がいたら、彼は自分というものが「ある」ということを経験しうるでしょうか。生まれた時から五感の一切がなければ、それは困難かもしれませんが、多分、人生の中途からであれば、可能なのではないでしょうか。
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