東浩紀『存在論的、郵便的』解説―思考の三つのシステム

1、はじめに

 
 本発表は東浩紀の『存在論的、郵便的』の要点をかいつまんで説明することを目的とするものである。それは東浩紀が本書で提出している図式を「思考の三システム」という形で整理することにより為される。もとより完全に客観的な要約などあり得ないし、それは結局私の理解しえた内容に過ぎないが、それに各人の解釈が対置されうるような基本的でたたき台となる読解にはなり得ていると思う。

2、思考の三つシステムと「象徴秩序」

 東は本書のうちで三つの思考のシステムを検討している。それらは順に形而上学システム、否定神学システム、郵便-誤配システムである。

 これらを理解するためには、人間的世界が言語によって分節され、構造化されていることを了解することから出発するのがよいだろう。人間は言語による分節と意味づけによって世界を構成する。人間なしにどんなものがあるにせよ、人間にとってそれらが現れてくるのは、言語という網を通してなのである。

 三つのシステムの違いは、この「(言語的な)世界」=「象徴秩序」の構造の認識に関する差異によって整理すると一番理解しやすいと思われる。

3、形而上学システム―「非世界的なもの」はない

 第一に形而上学システムを見てみよう。このシステムは「世界=象徴秩序」の完結性を主張する立場と見ることができる。「世界」=「象徴秩序」には外部がない。そこでは「言語内翻訳」(p248)1)以下、特に断りのないかぎり、ページ数は『存在論的、郵便的』のページ数である。が常に可能であり、「シニフィアン(記号表現)」は必ず「シニフィエ(記号内容)」をもつ。それは「すべてのシニフィアンがまた別のシニフィアンへ、つまりすべてのシニフィアンが対応するシニフィエへと送付可能」(p114)なシステムである。

 具体的な例として挙げられているのは、フッサールの現象学、ラッセルの固有名に関する記述主義、そしてフロイトの後継のうち正統派とされる自我心理学である。要点は、どの例においても世界が完結し、その外部がないということである。

 別の言い方をすると、そこでは象徴秩序が完結している、全てのシニフィアンがシニフィエを持つ。全てのシニフィアンがシニフィエを持つ時、全てのシニフィアンが指示の連鎖を通じて、シニフィエによって特定される何らかの現前しうる存在者を指示することとなる。そこでは現前しうる世界に対する言語の有意味な剰余がない。全てのシニフィアンがシニフィエを持つ時、世界の外部はない。

 逆にいえば、「シニフィエなきシニフィアン」には、私たちに「現前する世界」の外部が宿る。しかし、それは否定神学システムを待つ必要がある。

 形而上学システムについて順に確認して行こう。東の整理によれば、フッサールの現象学では、「声の地平(世界)に回収されないもの、つまり非世界的存在は認められない」(p164)。かくして世界は完結し、「他者」は消滅し、世界を構成する主体の「専制」(p162)が帰結する。

 なぜ、非世界的存在(現前しないもの)がなければ主体の専制が帰結するのだろうか。超越論的現象学にあっては、経験的他者、というよりむしろ世界内的な存在者一切は主体が少なくとも意味的には構成したものである。経験的他者は主体の意味的な了解によって濾過されてしか現れない。それは主体の「鏡像」(p162)に過ぎない。だからこの「主体=世界」を揺るがしうるのは、世界に回収されない非世界的存在者だけなのである。

 かくして結論として言えば、外部を認めずに世界を完結させるフッサール的「声」は「意識の同一性あるいはシステムの中心性を強化する」(p158)ことになる。

 次に記述主義について。固有名に関する記述主義においては、固有名というシニフィアンは確定記述の集合というシニフィエに還元可能であり、それによって定義される。

 固有名、例えば本書で例に挙げられている「アリストテレス」(p110)は、それに付与されうる述語・諸性質、すなわち「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」といった確定記述の束であり、それによって定義され、それ以上でもそれ以下でもない。

 これは「固有名の「言語内翻訳」がつねに保証されていることを意味する」(p248)。固有名というシニフィアンは、それに対応する確定記述の束というシニフィエをもっており、それに還元可能である。確定記述とは現に存在している主体の諸属性なのだから、固有名を確定記述に還元することは、主体のうちに現前を逃れる何か、現にあるもの以上の何か、つまり「私の中の、私以上のもの」を認めないことを意味する。

 最後は自我心理学である(p115-)。そこではすべての「欲動(シニフィアン)」がその「目的(シニフィエ)」をもつ。「欲動」はすべて何らかの内世界的な存在者をめがけることになる。

 その両者を結び付ける規則が「快感原則」であり、それは超越論的シニフィエと呼ばれる。超越論的シニフィエとはシニフィアンとシニフィエの結合を規定し、それを確実にする法則、「言語内翻訳」を確実にする法則である。

 このことに対応して、すべてのシニフィアンをそれに対応するシニフィエに送り返す形而上学システムは、超越論的シニフィエの体制とも呼ばれている。

4、否定神学システム―「非世界的なもの」が一つある

 では、第二にラカンがその代表者とされる否定神学システムとは何か。そこでは「世界 = 象徴秩序」の完結性が破られる。世界には外部がある。

「否定神学」とは、肯定的=実定的(ポジティヴ)な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的な表現を介してのみ捉える事ができる何らかの存在がある、少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般を広く指している。(p94)

 否定神学システムと郵便-誤配システムに共通する世界の完結性の解体、すなわち外部の出現を東は論理的脱構築と呼び、その否定神学ヴァージョンを以下のように整理する。

論理的脱構築とは何か。それは超越論的思考のひとつのタイプである。(…)論理的脱構築の方法(…)は、二つのステップで成立する。第一にその思考は、任意の経験論的テクスト/システムに、それ自身の論理では制御=決定不可能な特異点(singularité)を少なくとも一つ発見する(形式化の限界)。第二に思考はその特異点を通じて、テクスト/システム以前の差異空間、あるいは「思考されざるもの」へと遡行する(限界の存在論化)。そしてその遡行の正当性は多くの場合、詩的言語の力への信頼により支えられる。(p214)

 さて、否定神学システム、存在論的脱構築、超越論的シニフィアンの体制といった名前で呼ばれる思考、ハイデガー、ラカン、ジジェクなどがその代表とされる思考の内実はいかなるものか。

4-1、経験的=超越論的二重体

 その論理の基礎はハイデガーによって整えられたとされる。それは第一ステップとして、論理的脱構築を施す、すなわちシステムの特異点、外部への道を発見する。それがハイデガーにあっては「現存在」、つまり人間である。現存在は世界内部の一存在者であると同時に、世界がそこに現れる、世界を構成する主観でもある。

 つまり現存在は、ハイデガーの言いそうにない表現を用いれば、世界の内部であり同時に世界の外部でもある。この性質を、東は、ハイデガーからは「二重襞」、フーコーからは「経験的=超越論的二重体」という言葉を借りて表現している。引用しておこう。

『存在と時間』は、現存在が構造的に抱え込む二重性、ハイデガーが「二重襞」という隠喩で呼ぶ条件へと注目していた。人間は確かに世界全体を産出する。しかし他方で人間は日常的経験が教えるように世界の中の一事物でもある。つまり現存在はひとつの存在者として世界に内属するとともに、同時に世界そのものをも産出している。この規定は論理的に整理すれば、現存在がオブジェクト・レベル(存在させられている諸事物)とメタ・レベル(それらを存在させている根拠)とに同時に位置することを意味する。(「想像界と動物的回路」『コレクションD』p141)

4-2、超越論的シニフィアン

 さて、こうして「世界=システム」に穴が穿たれた。世界の外部が、「不可能なもの」(=現前しないもの・経験不可能なもの)がたった一つだけ可能となった。それは世界を現前させるもの、世界を構成する主体自身である。表象する主体を表象することはできない。それが「世界=主体」の穴である。

 しかし、東によれば否定神学システムは、その穴を縫合することによってシステムを再度安定させる。それが「超越論的シニフィアン」の機能である。

 それは世界の外部、ラカン風に言えば、〈現実界〉、あるいは「不可能なもの」そのものに与えられる名である。それに名が与えられることで、否定的な外部が名指され、内在化される。それは外部そのものを指示するのだから、当然、それに対応するシニフィエは無い。それは「シニフィエなきシニフィアン」であり、ラカンによって「対象a」、あるいは、欠如そのもののシニフィアン、すなわち「ファルス」と呼ばれるものである。

ラカンによると『盗まれた手紙』における手紙は、「対象a」あるいは「ファルス」、すなわちそこで現実界が顕われる逆説的シニフィアンとして解釈される。「対象a」とはジジェクの表現を借りれば、象徴界の直中に空いた欠如(ゲーデル的決定不可能性)の「実体化embodiment」、いわば主体の穴を塞ぐものを意味する。(p100)

4-3、形而上学システムとの差異

 形而上学システムとの差異は明らかだろう。否定神学システムには世界の外部があり、それを指示するシニフィアン、それゆえシニフィエのないシニフィアンが存在する。

 形而上学システムと比較しよう。

 第一に、否定神学システムは、固有名に関する反記述主義を正当化する。私たちは自らが確定記述、私が現にそうであるあり方に還元されるとは考えない。私は、私の中に(現にある)私以上のものがあると感じる。例えば「私、例えば山田太郎は、男性でなくても、日本人でなくても、○○社の社員でなくても、山田太郎だ」と考える。

 これは、もし固有名が確定記述に還元可能であるとすれば、つまりそれによって定義されるのだとすれば、端的に矛盾である。しかるに、私たちは上のような思考を自然なものと見なす。とすれば、固有名には確定記述に還元されない剰余がある。すると、「固有名」は、「シニフィエなきシニフィアン」という性格を持つことになる。だから、東によるとジジェクはそれを否定神学の論理によって基礎付ける。

ジジェクによってラカン化された反記述主義。そこでもまたクリプキと同様、固有名は確定記述の束に還元不可能だと見なされる。ただし固有名の残余=剰余(plus)は、もはや個々の名にポジティヴに宿るとは考えられない。それはむしろ、ラカン派精神分析が「対象a」と呼ぶもの、つまり主体の欠如の「相関物」として解釈されている(「『固定指示子』の現実的かつ不可能な相関物としての対象a」)。固有名が言語内翻訳(象徴界におけるシニフィアンの相互送付運動)に抵抗するのは、それが言語体系=象徴界に空いた穴を顕在化する特殊なシニフィアンだからだ。つまりジジェクは、固有名には言語体系のゲーデル的自壊(現実界 le reel)が顕れると考えた。(p249)

 そして、第二に、ラカン派精神分析は、自我心理学と異なりフロイトから「死の欲動」を継承する。それは世界内に対象が存在しない「目的なき欲動」、つまり「シニフィエなきシニフィアン」である。かくして、否定神学システムでは、主体の二重襞に相関して世界の外部が存在し、それに対応して主体はその諸属性、その現にあるあり方に還元されえない固有名をもった存在となり、「死の欲動」に取り憑かれた存在となる。

 第三に、フッサールとハイデガーの違いについての整理も参照しておこう。東によれば、世界の完結性、意識の同一性を保証するフッサールの「声(フォネー)」と異なり、主体の「直中に空いた穴」(世界の外部、〈現実界〉)から響き渡るハイデガーの「呼び声(ルフ)」は、「私があることの、あるいは(同じことだが)世界全体があることの根底的な「無」を暴露し」、「日常的かつ内世界的な主体、つまり「ひとdas Man」の同一性」を「内部から脱臼」する(p158-161)。

4-4、超越論的シニフィアンからクラインの壷へ

 しかるに、東によれば、その穴は超越論的シニフィアンによって塞がれて「システム=主体」に再度の安定がもたらされることになる。東によると、ジジェクのイデオロギー論は、「現実界が響かせる…壊乱的な声を聞かないために」「主体の穴を塞ぐ」「対象a」が「あらゆる主体にとって必要とされている」(p140-p142)という議論であり、そこでは「対象a」として機能するイデオロギー、例えばスターリニズムが批判不可能になってしまう。

ジジェクのイデオロギー論はそれ自身が、前述した「否定神学的共同体」の論理をそのまま反映したものになっている。そこではイデオロギー対象としての<もの-国家>は、具体的内実を全て欠いた崇高な対象=無になったときにこそ最も強力に機能し、かつその機能はあらゆる主体にとって必要とされているという結論が導かれる。私たちがジジェクに対して一貫して批判的であるのは、固有名の剰余、イデオロギーの逆説的魅力を全て主体のアンチノミーに帰着させるその議論が、実践的には否定神学的共同体への批判を不可能にする装置そのものだと思われたからである。(p142)

 この新たなる「閉域」の出現によって、東は否定神学システムをクラインの壷と同定する。おそらくはこういうことだろう。東の超越論的シニフィアンの体制としての否定神学理解によれば、否定神学システムにあっては、主体はその「経験的-超越論的二重性」によって、オブジェクトレベルからメタレベルへ、内部から外部へと、いわば「超越」していくのだが、そこは新たなるオブジェクトレベル、内部、あるいは「閉域」である。

 東によると、ジジェクのイデオロギー論はそのことを示している。とすれば、否定神学システムはメタレベル、外部を目指すが、メタはベタへと、外部は内部へと還流し、決して十全なるメタレベル、外部には辿り着けないという不毛なる無限後退に陥るだけなのである。かくして、それはまさしくクラインの壷だ、ということになる

4-5、用語の整理

 最後に、本節全体の内容をふまえて、否定神学、論理的脱構築、超越論的シニフィアン、存在論的脱構築などの用語の関係を整理しておこう。

 東の「否定神学」理解によれば、それは第一ステップとして、主体の「経験的=超越論的二重性」によってシステムの完結性を解体し、第二ステップとして、世界の外部を超越論的シニフィアンによって実体化し、システムを再度安定化する。もちろん、この二ステップは本節最初の引用に対応している。再掲しておこう。

論理的脱構築とは何か。それは超越論的思考のひとつのタイプである。(…)論理的脱構築の方法(…)は、二つのステップで成立する。第一にその思考は、任意の経験論的テクスト/システムに、それ自身の論理では制御=決定不可能な特異点(singularité)を少なくとも一つ発見する(形式化の限界)。第二に思考はその特異点を通じて、テクスト/システム以前の差異空間、あるいは「思考されざるもの」へと遡行する(限界の存在論化)。そしてその遡行の正当性は多くの場合、詩的言語の力への信頼により支えられる。(p214)

 さて、用語の確認をしよう。「否定神学システム」という用語はこのプロセス全体を指示する。

 論理的脱構築は「システム=世界」の完結性の解体を意味するので、「経験的=超越論的二重性」を用いる第一ステップは論理的脱構築の一形態と言える。

 他方で、「超越論的シニフィアンの体制」という用語は第二ステップを指示し、「存在論的脱構築」は、東の用語法によれば、超越論的シニフィアンの探求を意味するので、これも第二ステップにのみ適用される用語である。

 超越論的シニフィアンの体制、ここではジジェクのイデオロギー論は、後に東の「否定神学=超越論的シニフィアンの体制」の批判が、理論的な批判から歴史的相対化に移行するとともに「シニシズム」の名で呼ばれるようになる(例えば『動物化するポストモダン』)。

 またここで本節全体への注として「否定神学」の語義について述べておくのも有益だろう。否定神学の原義は、「神は~である」といった肯定命題で神について語ることを、それは神を人間の認識で捉えうるものにしてしまうし、また神を限定してしまうものだとして排除し、神をただ「~ではない」という仕方でのみ考え語る立場を指す。ここにおいて神は存在者ではなくなり、決して現前しないものとなる。

 対して東は、初め否定神学を「肯定的=実証的(ポジティヴ)な言語表現では決して捉えられない」(p95)存在を想定する立場と定義しつつも、最終的には、世界の外部を「実体化」する超越論的シニフィアンの論理も含めて、否定神学と呼ぶようになる。具体的には超越論的シニフィアンとして機能するスターリニズムなどが否定神学と呼ばれる。当然のことながら、スターリンは現前している。これは人を混乱させる用語法といえるかもしれない。

5、郵便-誤配システム―「非世界的なもの」の複数性

 では第三に、この否定神学システムに対置される郵便システムとは何か。それも論理的脱構築を行う。すなわち「世界=象徴秩序」の非完結性、世界の外部、「不可能なもの」を発見する。

 しかし、デリダの郵便システムは、それを主体の「二重襞」によって思考することをしない。郵便システムはそれを、言語一般、記号一般につきまとうエクリチュール性によって思考する。

 このシステムにあって「不可能なもの」(世界の外部、現前しないもの、経験不可能なもの)は「幽霊」と名付けられる。現前の論理に従わず、象徴秩序に回収されない複数で能動的な「幽霊」の存在が、「世界=主体」の完結性を掘り崩す、とされる。

 東は本書において、「幽霊」あるいは「非世界的なもの」が生じるメカニズムを二つ導入しているように思われる。第一が「誤配-散種」、第二がコミュニケーションにおける速度のズレ、私たちの内なる諸器官の情報処理速度のズレであり、これは「リズム」と呼ばれる。

5-1、誤配-散種

 第一の契機、誤配可能性と散種から見ていこう。その要点は、「署名という諸効果はこの世界において最もありふれたものである。とはいえそれらの諸効果の可能性の条件は、またしても同時に、それら諸効果の不可能性の条件、それら諸効果の厳密な純粋性の不可能性の条件である」(p36)というデリダの言葉に集約されていると思われる。

 この要点を了解するのに必要なのは、記号における「同じもの/同一性」(≒「シニフィアン/シニフィエ」)を区別することである(p35-)。

 記号とは、何かを代理表象するものだが、記号は例えば「X」なら「X」で常に同じような形をしており、それは「同じもの」と見なされる。これが記号における「同じもの」であり、「同じもの」とは記号そのものであって、記号が、それの置かれる文脈が変わっても「同じもの」と見なされることが記号の可能性の条件である。

 一方、記号の意味、記号によって代理表象されるものが記号の「同一性」と呼ばれる、記号「X」によって了解される意味内容が、記号の同一性である。

 さて、ある記号が記号でありうるため、つまり、記号として機能するためには、それは複数の文脈で使われなければならない(記号の可能性の条件としての引用可能性)。つまり、「同じもの」が諸々の文脈間を運動しなければならない。

 しかし、それは記号に複数の「意味=同一性」を持たせる。「同じもの」が運動する中で、その「意味=同一性」は不可避的にズレていく。その結果として、ある記号の意味に複数性が生じ、またそれゆえに意味の決定不可能性が生じるのである。記号の意味が他でもありうるという経験、つまりは意味が中吊りになるという経験が生じる。

 そこにおいて、「シニフィエなきシニフィアン」が、つまり象徴秩序の外部が、「不可能なもの」が、あるいはもう一度引用すれば、「任意の経験論的テクスト/システム」の内の「それ自身の論理では制御=決定不可能な特異点」が発見されるというわけである。

 先の引用文(「署名という~」)に即して確認しよう。「X」という記号、その「同じもの(X)」の運動が、記号の可能性の条件、「その諸効果の可能性の条件」、すなわち記号が「同一性=意味」をもつ可能性の条件であるが、それが同時に記号の「同一性」を揺らがせ、決定不可能性を生じさせる。つまり、「同じもの」の運動は、「同時に、それら諸効果の不可能性の条件、それら諸効果の厳密な純粋性の不可能性の条件である」。

 さて、この記号の同一性の揺らぎこそ、東のいわゆる郵便的誤配の最も抽象的な表現であると思われる。この意味の揺らぎのために、「手紙=意味内容」はあて先に届かないことがありうる。

 そして、この「同じもの」の運動の過程において、その結果として生じる「意味=同一性」の複数性と、それに相関して生じる「同じもの」の「同一性」への還元不可能性、つまりシニフィアンのシニフィエへの還元不可能性、意味の決定不可能性が「散種」と呼ばれるとさしあたり考えることができよう。

補項:散種と多義性の差異、散種の多義性化

 本書でよく使われる、この「散種」は捉えにくい概念である。だから、ここでは、それを単なる「多義性」との違いに着目して整理し、(1)「同じもの」(記号)の運動の過程で生じる、(2)還元不可能な、(3)意味の複数性という三点から捉えておこう。多義性は(3)の条件を満たすが、(1)と(2)は満たさない。

 本書の記述に即して確認しよう。まず(2)(3)の点から。本書冒頭において、多義性は「耳(パロール)」に対応するのに対し、散種は「目(エクリチュール)」に対応するといわれる(p14)。

 例として、he warという文(?)が提示されている。war はドイツ語と英語に同時に所属する。「散種=目(エクリチュール)」のレベルでは、この文は二つの読解コンテクストに同時に属し、そのどちらの読みが正しいかは決定できない。

 この文(シニフィアン)は特定の意味(シニフィエ)に還元不可能である(ところで、ある記号の二つの読解コンテクストへの同時所属による意味の決定不可能性は、p20で与えられる「脱構築」のさしあたっての定義でもある)。

 他方、「多義性=耳(パロール)」のレベルでは、つまりこれを発音してしまえば、この文はドイツ語か英語どちらかに属することが決定されてしまう。この種の意味の複数性は、いずれ全て集積することが出来るだろう。今回であればドイツ語の意味と英語の意味の二つで、この文の意味の複数性は汲みつくされたことになる。つまりこの文(シニフィアン)は特定の諸意味(シニフィエ)に還元可能になる。

 次に(1)の点(p24-)について。曰く、散種は最初からあったわけではない。最初にあるのは一つの記号(同じもの)である。それが諸々の文脈を運動することで意味の複数性が生じる。しかるに、「多義性」の思考は、最初に(あるいは深層に)複数のコンテクストや構造があり、それが記号の意味を重層的に決定していると考える。

 この捉え方は、ある記号の意味を規定する諸コンテクストへの遡行的な探求へと必然的に移行する。それは「過去についての思考」(p24)である。このような構えにあっては、いずれ、その複数の「コンテクスト=意味」は全て数え上げられることになるだろう。こうしてここでも記号(シニフィアン)は複数の意味の集積(シニフィエ)に還元可能になってしまう。それは「多義性」になってしまう。

 かくして「散種」は、(1)「記号=同じもの」の運動の結果生じる、(3)意味の複数性であって、しかも、(2)(それを運動の結果として捉えるがために)還元不可能なもの、意味の決定不可能性を経験させるものとして捉えられたようなそれである、と整理することができる。

 ところで、意味の複数性を記号の運動と切り離し、還元可能にしてしまう身振りは「散種の多義性化」と呼ばれている。この「散種の多義性化」についても少し述べておこう。

 これは本書で幾度か使われているが、二つの異なる意味を持っていると考えたほうが読解が容易になると思われる。つまり、「形而上学的」散種の多義性化と「否定神学的」散種の多義性化である。

 具体的には、「ジョイス会社」(p26)について言われるのが形而上学的多義性化、リオタール(p55)、クリプキ=ジジェク(p124)に対して言われるのが否定神学的多義性化である。

 前者は意味の複数性を記号の運動から切り離し、多義性化することで、記号の意味の複数性を還元可能に、つまりシニフィアンをシニフィエに還元可能にしてしまう。

 他方で、後者は、記号の意味の還元不可能性を、つまりシニフィアンのシニフィエへの還元不可能性を、記号の運動とは切り離して認識し、シニフィアンに宿るシニフィエに対する剰余を実体化し、何か別の仕方(アウシュヴィッツというトラウマ、原初的命名の神話、「現実的なもの」…)で基礎付けられるべきものと見なすのである。

5-2、否定神学システムとの差異

 さて、話を本筋に戻すなら、かくして、郵便システムにおいては、個々のシニフィアンが、その「意味=同一性=シニフィエ」に対する過剰をもち、多かれ少なかれ「シニフィエなきシニフィアン」となっている。すなわち、デリダの用語でいうと、エクリチュールになっている。「『エクリチュール』という述語は、…同一性をもたない記号の運動を指す」(コレクションL p159「想像界と動物的回路」)。

 このエクリチュールにおいて、象徴秩序の「穴」、象徴秩序に収まらず現前の論理に従わない、それゆえに主体のコントロールの及ばない、複数の「幽霊」が現れるというわけである。

 否定神学システムと郵便-誤配システムの差異は、それが世界=象徴秩序の外部を考える際に、一方は主体の経験的-超越論的二重性を用いるのに対して、他方は、個々の語が運動する中で生まれる、語の「同一性」に対する剰余、シニフィアンのエクリチュール化、個々のシニフィアンに宿る「二枚重ね性」(p304)を用いるという点にある。

 そして、東はジジェクに抗して、郵便的論理によって固有名の剰余をも基礎付ける。この点は『自由を考える』の説明が簡潔である。

普通には、一方に人間の実存的本質、つまり「固有名」があって、他方に人間のさまざまな特徴の集合体、つまり「確定記述」があるととらえる。(…)『存在論的、郵便的』では(…)僕が主張したことはこうです。固有名と確定記述、…この両者は形而上的に区切られているわけではない。固有名はそれ自体で実在するものではない。それは人がひとりで生きていて生成するものではない。固有名とは、名前が社会のなかで伝達され、さまざまな「誤配」や「誤解」に曝され、いく度も訂正されることではじめて生まれるものである。その条件が「誤配可能性」です。(p190)

 「固有名」の記号が諸々の文脈を運動し、そうすることでそれに付与される「確定記述=同一性」に揺らぎが生まれる。そこに生じる、「固有名」の「確定記述」への還元不可能性(=散種)、「確定記述」が他であったかもしれないという可能性(私の経験的同一性が他であったかもしれないという可能性)の相関物として、「固有名」の剰余が存在する。

5-3、速度のズレ=リズムの衝突

 以上で郵便-誤配論と、それによる固有名論を終え、次に「幽霊」の第二の契機である「速度のズレ」=「リズムの衝突」について見ていこう。

 こちらの契機は私の知る限り「サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか」(『情報環境論集』所収)におけるフロイトの『不気味なもの』の援用を最後に放棄されており、『自由を考える』や『ゲーム的リアリズムの誕生』にまで連なる誤配論2)『ゲーム的リアリズムの誕生』の理論的基礎である「キャラ」/「キャラクター」の概念対は、前節における「同じもの」/「同一性」と完全に並行する理論的機能を担っているように見える。『動物化するポストモダン』の、キャラクターを萌え属性に還元する議論がキャラクターに関する形而上学である一方、メタ物語的(脱文脈的)な「キャラ」の運動が「キャラ」の「キャラクター=同一性」を揺るがすが、しかしそうであることによって初めて「キャラが立つ」のだという『ゲーム的』の議論は、キャラクターに関する郵便的固有名論であると整理できるように思われる。とは、かなり異なる運命をたどった議論であると思われる。

 東はここで以下のように論じている。速度の異なるコミュニケーションのモード、あるいは情報処理速度の異なる我々の内なる器官の間の衝突が、「単一の主体に対して現れる単一の世界」という構図、つまり世界=象徴秩序の完結性を微細に揺るがし、非世界的な、不気味な効果を生じさせるのだ、と。

 そこで例に出されるのがフロイトの「不気味なもの」に関する分析である(p188)。フロイトはある友人について考えているとき、その友人とばったり出会うという「不気味な」体験をした。

 これをフロイトはこう分析する。友人が遠く離れていた時点で、フロイトの目は彼をとらえていた。しかし、彼は不愉快な友人なので、その知覚は抑圧され、意識にはのぼらない。だが、他方で無意識はその抑圧された情報から独自に連想の糸をたどり、友人のことを心にのぼらせる。

 その状態で友人との距離が近づいていくことで、フロイトはちょうど友人について考えていたときに、彼に出くわすという不気味な体験をすることになる。ここでは、「不気味な」体験が諸器官の情報処理速度のズレで説明されている。この不気味な経験において、主体の統一性が揺るがされ、主体に他者のリズムが導入されるのである、とされる。

5-4、郵便空間

 幽霊論の最後に、郵便空間あるいはデッド・ストック空間という用語について確認しておこう。これは「幽霊」のような非世界的な効果が生じる空間のことだが、今までの議論から明らかな通り、それは世界の外にある非世界的な空間なのではなく、コミュニケーションのネットワークそのものである。コミュニケーションのネットワーク一切が可能的な郵便空間なのであり、そこにおける誤配と速度のズレの他に、何か外部的な非世界があるわけではない。

 本書の第四章では、そのような郵便空間の一つの特権的な例としてフロイトの無意識、それを繋ぐ転移空間が導入される。無意識はシニフィアン(語表象)をエクリチュール(物表象)化するのだが、本書によれば、そのエクリチュールを通して意識を介さずに無意識的に主体間でコミュニケーションが行われるのが「転移」だという。

 無意識においては、「同じ」エクリチュールが、ある「同一性」を持たないまま(=シニフィアン化されないまま)、複数の無意識の間を往還することでコミュニケーションが行なわれるのであり、それが転移であって、そこにおいて主体に他者のリズムが導入される。

 東によると、デリダはそこに着目し、あるシニフィアンから同一性を抜き取ってエクリチュール化し、そこに別の同一性を流し込むことで無意識への介入を図る戦略を開発した。それは「同じ」名に、別の「同一性」を流し込む戦略であり、古い「名」自体は維持されるため、「古名」の戦略といわれる3)これは否定神学が哲学素を「固有名化」するのと対比的に言われている。単数的な「不可能なもの」を思考する否定神学にとって、それを名指す「シニフィエなきシニフィアン」、「超越論的シニフィアン」は「固有名」として機能し、特定の語をめぐって外部から見れば閉ざされた隠語的な思弁が繰り広げられることとなるというわけである。本書の中断の直接的な理由は、東の作業が、デリダの「古名」を「固有名」化することであることが自覚されたことに求められている。

 かくして無意識は純粋なエクリチュールが、つまりは「純粋な幽霊」(p321)が存在し、それによるコミュニケーションが生じる特権的な場として導入されるかに見えるのだが、その転移空間にしてもすでにして「「文通の、人間関係の、連結器の、交通のネットワークに、そして散種意味的、郵便的、鉄道的な選別に」依拠するひとつの隠喩」(p314)であるのだと言われる。これらのことは、別に転移空間に限られてはいないのである。

5-5、欲動との関係で

 最後に、欲動との関係でも郵便-誤配システムの立場を確認していこう。東によれば、ラカン-否定神学には主体の二重襞性に対応してただ一つ「不可能なもの」「シニフィエなきシニフィアン」「届かない手紙」が存在するが、その他のシニフィアンについて「欲動を代理するシニフィアンが「分割され複数化され、破壊され行方不明になる」可能性」(L p152)は「徹底的に排除」(同)されている。そこでは手紙が「届かないことがありうるということ」が排除されているのだ(p118)。

 東によれば、ラカン-ジジェクにおいて「「現実界」の観念」は「言語体系をひとたび全体として捉えたあと、あらためてその全体性を脱構築する(ゲーデル的決定不可能性に導く)こと」(p116)で初めて得られるのであり、彼らは「象徴界全体を捉えるために個々のシニフィアンの誤配可能性を抹消」(p180)せざるを得ないので、この排除は必然的である。

 かくしてラカンは欲動を(理念的な)シニフィアンと解することで「欲望の宛先を同定」し「それに呼応して主体の場所を定めること」(L p159)が出来た。他方でデリダは欲動の表象代理を、絶えず誤配されうる(物質的な)エクリチュールととらえることを提案する。というよりエクリチュールとは記号一般の条件なのだから、そのようにとらえられなければならない。

エクリチュールは理念的同一性に統御されず、たえず分割され誤配される。結果としてデリダのパースペクティブにおいては、欲動の群れは一つにまとまらず、主体も絶えず拡散している―デリダの術語で言えば「散種されている」(L p153)

6、まとめ

 以上で『存在論的、郵便的』の議論を簡潔に整理するという本稿の目的は達せられたと思う。本書では三つの思考のシステムが導入され、その違いが問題である。

 それは言語的な、象徴秩序としての私たちの世界の構造についての捉え方の違いである。「形而上学」では、この世界の外部はない。「否定神学」では、主体の二重性、それが世界の一部であるとともに、世界の限界であるということに応じて、世界の外部が一つ存在する。

 そして、最後に「郵便-誤配」の立場からすれば、記号は記号であるために、複数の文脈の間を運動しなければならず、結果として、必ず還元不可能な意味の複数性を身にまとう。そこに言語的世界の外が除く裂け目が、「幽霊」が現れるための隙間が、無数に生じるのである。

References   [ + ]

1. 以下、特に断りのないかぎり、ページ数は『存在論的、郵便的』のページ数である。
2. 『ゲーム的リアリズムの誕生』の理論的基礎である「キャラ」/「キャラクター」の概念対は、前節における「同じもの」/「同一性」と完全に並行する理論的機能を担っているように見える。『動物化するポストモダン』の、キャラクターを萌え属性に還元する議論がキャラクターに関する形而上学である一方、メタ物語的(脱文脈的)な「キャラ」の運動が「キャラ」の「キャラクター=同一性」を揺るがすが、しかしそうであることによって初めて「キャラが立つ」のだという『ゲーム的』の議論は、キャラクターに関する郵便的固有名論であると整理できるように思われる。
3. これは否定神学が哲学素を「固有名化」するのと対比的に言われている。単数的な「不可能なもの」を思考する否定神学にとって、それを名指す「シニフィエなきシニフィアン」、「超越論的シニフィアン」は「固有名」として機能し、特定の語をめぐって外部から見れば閉ざされた隠語的な思弁が繰り広げられることとなるというわけである。本書の中断の直接的な理由は、東の作業が、デリダの「古名」を「固有名」化することであることが自覚されたことに求められている。
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