ハイデガーの「存在論的差異」とフロイトの「性的差異」

 ここではハイデガーの「存在論的差異」とフロイト・精神分析の「性的差異」の連関について考えてみます。

1、存在論的差異 

 哲学に興味が無い方にはよりつまらない方の「存在論的差異」からはじめましょう。これはハイデガーに言わせると全ての哲学を担い可能にしている差異なのですが、これはいかなる差異でしょうか。それは一言でいえば「存在者」と「存在」との差異です。

 では、そもそもこの二つのものは何なのでしょうか。第一に「存在者」とは、そこらへんにある机や本から始まって、動物や人間、さらには地球といった、要するにそれについて「存在する」といわれる全てのものです。

 他方で「存在」とは、この「存在する」ということの了解です。ハイデガーの基本的な見方によると、人間が「存在する」ということを理解し、「存在する」という感じを知っているからこそ、人間はすべてのものを「存在者」としてみることが出来るわけで、この人間が持っている「存在する」ということの理解、その「感じ」がハイデガーの言う「存在」です。

 人間が「存在了解」をするが故にのみ、世界が十全な意味で「存在する」わけですし、「存在者」と人間は関わることが出来るようになるわけです。

 難しい問題は「存在了解」以前にも、後に「存在者」になるものの「素」のようなものは、「存在する」のではないかということですが、これについては措いておきましょう。

 さて、これが全ての哲学を可能にする差異であるというのは、ハイデガーには、他の諸学が様々な「存在者」を扱うのに対して、哲学は「存在」を扱うのだという考えがあるからです。私たちが「存在」を何がしかの意味で理解するかぎりで、私たちは「存在者」に接することができるので、ここに哲学の諸学に対するハイデガー的な先行性があります。

 さて、私たちは普通「ある・存在する」ということがどういうことかを何がしか理解しており、だからこそ、世界や自分が「ある・存在する」と感じることが出来、また様々な「存在者」に関わることが出来ています。

 後期ハイデガーの探求の眼目は、ここでこの存在了解をそもそも成立せしめたような出来事について語ろうとするところにあります。つまり、世界が「ある」ようになる出来事、世界の開けが開ける出来事について語ろうとするわけです。

 さて、これについてのハイデガーの構想ですが、重要なことは、ただ一つ、「存在する」ことは「無」との反対関係においてのみ理解されうるということです。

 かくして、ハイデガーのこの出来事は、「存在者」と「無」との分割が生じること、人間がこの分裂の狭間に立つことで、「無」との反対関係を通じて、「存在者」が「存在する」ことを理解することとして構想されます。

 これは「存在者」の側から言い換えれば、人間を「存在者(のもとになるもの)」から引きずり出し、「存在者」と「無」との間に立たせる退去の運動が「存在」を可能にするものだということです。あるいはさらにこう言い換えることも出来ます。

 ハイデガーのいう「存在」とは、「私なるものが世界の中の一存在者であると同時に、そこにおいてのみ世界が立ち現れ「ある」ようになる「そこ」でもある、その意味で世界の限界でもある」という不思議な二重性を説明するための、ある原初的な分裂作用である、と。

 さて、この根源的な分裂と退去の動勢として、また言い換えれば「無」であり私たちを引きずり込む「深淵」であるものとして、あるいはまた別様に言えば、ある「裂け目」の生起として「存在」の根本的次元を捉えるのがハイデガーの立場、つまり「存在の思惟」であり、これを忘れて、その帰結であるに過ぎない「存在者」が「存在」のうちに根拠づけられて確固たるものとして「存在する」というところに甘んじるのが、彼が言う批判的な意味での「形而上学」ということになります。

2、性的差異 

 さて、これと「性的差異」の問題はどう連関しているでしょうか。もちろん、まず性的差異をフロイト的に認識しなければなりません。フロイトの男性中心的な構想の問題性については今回はさしあたり考えないこととします。

 フロイトは、幼児の欲望はどこにでも向かうとし、一切の出発点を幼児の「多形倒錯」と「両性性」に置きました。つまり、異性愛的なセクシュアリティは自然ではないわけです。では、なぜ現に多くの生物学的男性が男性的ポジションをとって女性を欲望し、多くの生物学的女性が女性的ポジションをとって男性を欲望するのでしょうか。

 セクシュアリティの自然的生物学的規定性を放棄したフロイトは、これを幼児が性・セクシュアリティを引き受けるという仕方で捉えます。さて、ではこのように性を引き受ける幼児の内的経験に依拠したとき、どこに男性と女性の分かれ道があるでしょうか。それは性器の見かけ上の差異(=解剖学的性差)にしかないというのがフロイトの意見です。

 そして幼児による解剖学的性差の認知と意味付け、それによる各性の引き受けを記述するのが、他でもない「去勢コンプレクス」と「エディプス・コンプレクス」の眼目の一つです。

 まず、男児の場合は女児を見て、そこに男性器が無いことを知り、男性器が無くなってしまうこと、つまり「去勢」の現実性に震え上がります。そのために男児は父とを対立を生み出す母への愛を断念し、父に同一化することで、将来母の代わりとなる対象を獲得することに期待することになります。

 他方で女児は男児を見ることで自らを去勢されてしまった存在として捉えます。女児は男性器が「無」いところから出発して、それを与えてくれなかった母を恨み、また「男性器 = 息子」という象徴公式を通じて、男性器への欲望を父の子どもが欲しいという欲望へと転換することで、母から父へと欲望の対象を転換するというわけです。

 ここから男児にとっては「無」くなってしまうかもしれない男性器を固持するという「所有」の態度が構成的となり、女児にとってはすでに「無」いもの(「男性器=息子」)を他の人からもらうという「関係性」の態度が構成的となるというのが基本的な精神分析的な性別観です(もちろん、フロイトが女性のもう一つの欲望として男性を去勢したいという欲望をあげたことを忘れないことは重要ですが)。

 要するに、精神分析の見方に従えば、男性は金やら地位やら名誉やら女性やら知識やら学問やらを所有して立派に「屹立」しようとするわけであり、他方で女性にあっては、自らに欠けているものをもらうために、他者から欲望され、他者と関係性を持つことが決定的なわけです。

3、存在論的差異と性的差異 

 
 さて、「存在論的差異」と「性的差異」の関係を考える上で決定的なのは、精神分析的にいって、「存在」と「無」(完全に下ネタですが、もっと正確に言うと、「裂け目」「深淵」)との原初的な分節化とそれに対する立場取りは性器的差異(解剖学的性差)の認知において生じると言えることです。

 つまり、男性的ポジションとは、ある「無」「裂け目」「深淵」の可能性に際会して、それを避けて「存在」に飛びつくことであり、女性的ポジションとは、端的に「無」「裂け目」「深淵」であることを引き受けることであるというわけです。

 さて、ハイデガーの「存在の思惟」というのは、人間は「存在(Sein)」がそこであらわれる「そこ(Da)」、つまり「現存在(Dasein)」として、世界がそのうちでのみ「ある」ようになる、ある「裂け目」の生起であり、ある「無」と「深淵」の場所であるということを私たちが自覚することに帰着しますから、今の文脈で言えば、当然、何がしか「女性的なもの」ということになります。

 他方で、この「裂け目」を隠して、「存在」のうちに「存在者」を根拠づける体系を作り出そうとする伝統的な哲学、ある一貫性のもとに世界全体を言葉を通じて捉え「所有」しようとする伝統的な哲学、つまり、ハイデガーのいう「形而上学」というのは何がしか「男性的なもの」ということになります。

 もし、このように考えることができるとすると、性的差異の問題に哲学的な地位を与えることも、不可能ではないように思います。

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