フロイトの自我論と「自己意識」の問題

0、はじめに 「実存」の根本規定としての「自己意識」 

 人間に特有の存在のあり方としての「実存」は自己関係性によって特徴付けられる。キルケゴールは『死にいたる病』の中で「人間は精神である。(…)精神とは自己である。(…)自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である」1)セーレン・キルケゴール『死にいたる病』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1996年、27頁。と述べたし、ハイデガーは『存在と時間』の中で「人間」、つまり彼が「現存在」と呼ぶもののあり方を特徴付けて「この存在者にとって、その存在において、その存在自身が問題となっている」2)Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer Verlag, 19 Aufl., 2006, S.12.と述べている。

 人間的実存は自分自身に関わる。ハイデガー自身はこの語を好まなかったが、この人間の自己関係性は、一般的にはやはり意識としての人間存在が自己自身を意識していること、「自己意識」として取り扱うことができよう。とすれば、「実存」を根本から問うためには「自己意識」を問わなければならないことになるだろう。

 本稿はこの課題をある仕方で果たすために、フロイトの精神分析理論の自我論の哲学的な解釈ないし改釈を遂行する。本稿の特徴は以下のように規定できよう。

 第一に、「実存」ないし「自己意識」を問うという観点では、本稿は典型的に発達論的な精神分析理論に依拠することで、結局のところ成人した人間の内的な主観的経験から出発することの多い実存的諸哲学では問われることの少ない、自己意識の生成とその諸条件を問題にすることができる、すなわち、「実存」の生成的な意味での根源を問いうる。

 第二に、「フロイト自我論の解釈」という観点では、「エス・自我・超自我」からなる「第二局所論」という後期の完成した図式化に焦点を当てるのではなく、むしろ、そのように体系化されたのではない記述を拾い集め、その図式より根源的な次元を再構成することを目指す。その意味で本稿はフロイトの自我論の忠実な研究ではなく、むしろ、その哲学的な「改釈」ないし「再構成」という次元を含む。

 とはいえ、この試み自体は孤立したものではない。近年でも、フロイトを哲学的に再解釈する論文集が複数現れているし3)例えば、タイトルに「哲学」を含むフロイトに関する以下の二つの論文集を参照。Michael P. Levine(Ed.) The Analytic Freud Philosophy and Psychoanalysis, 2000, Routledge. John Mills(Ed.) Rereading Freud Psychoanalysis through Philosophy, SUNY Press, 2004.、その中には本稿の問題意識に近いものも存在する。

 例えば、そのうちの一冊『フロイトを読み直す 哲学を通じた精神分析』の編者であるジョン・ミルズが同書に寄稿した「自我とエス(‘The I and The It’)」を参照しよう。冒頭近くの一節が我々とほとんど同じ問題意識を明らかにしている。

自我とエスの間の区別は完全に明確ではなく、(…)フロイト自身によっても理論的に解決されていない。実際、今日の精神分析も(…)この論点に正しい解決を与えていないのである。(…)精神分析にとって永続的で風土病的な問題は、心的現実性の生成、すなわち、その起源を哲学的に説明する試みがまったく欠けていることである。4)Ibid., p.127-128.

 人間精神についてのフロイト的・精神分析的な理論は理論的・哲学的基礎を未だ欠いている。ここまでは我々も賛成である。だが、当該論文の解決策は我々を満足させない。ミルズはフロイトのテクストとはほぼ無関係に独自の「弁証法」なるものを導入することで問題をいわば抽象的に解決してしまうのである。我々としては、フロイトのテクストに寄り添いつつ、「自己意識」の生成とフロイト自我論の基本的構図の生成の問題を具体的に解明することを目指す。

1、フロイト理論の認識諸源泉 

 まず、以下の議論の前提として精神分析理論の認識の諸源泉を取り扱っておく。精神分析の試みを一言で特徴付けるなら、それは「理解可能性への賭け」とでも言えるだろう。

 フロイトは「不合理」で「無意味」と見なされがちな「夢」にも(『夢解釈』[2-3])、言い間違いや物の紛失など「単なる不注意」に還元されがちな「錯誤行為」にも(『日常生活の精神病理学』[4])、そして神経症のさしあたり不可解な諸症状にも、広い意味で合理的なものとして理解されうる「意味」ないし「意図」[11:33]があることを断固として主張したし、そもそも精神分析の実践は抑圧された外傷的な記憶を想起することで、それまで不可解だった症状の「意味」が「理解」され、そうすることで同時に消失することの発見に端を発するものだった(『ヒステリー研究』[1])。

 以上の「理解可能性への賭け」ということから精神分析的な知ないし理論の重要な性質が帰結する。我々が人間の言動を理解しようとする際、まずもって参照されるべきは外的客観的な現実ではなく、それをその人間がどのように経験し意味付けたかである。精神分析的な知は人間の「心的現実」の語りとして成立する。

 これは性理論や、結局はその中に位置付けられる自我論についても同様である。このことを確認するために、フロイトの性理論の基礎が展開されている『性理論三編』の序言の文言を以上の観点から説明してみよう。

 フロイトはそこで当該書が精神分析の経験なくしては書き得なかった、言い換えれば、「子どもの直接観察」だけでは書き得なかった[5:32]と、そして、当該書には精神分析がそれを「確認することを許してくれた」こと、また「想定するよう強いること」しか書かれていないと述べている[5:29]。幼児を直接に観察しても、その内的経験は見えない。

 そこで重要なのが「精神分析が確認することを許してくれたこと」、および「精神分析が想定するよう強いること」である。つまり、フロイト的性理論の知の源泉は一つには精神分析が「確認することを許した」幼児期記憶の想起、つまり幼児の内的経験の、幼児期以後の知に媒介され言葉を与えられた想起であり、もう一つには、患者たちの我々から見れば奇怪な言動が有意味であり理解可能であるためには「想定せざるをえない」ことなのである。

 更にここに二つの知の源泉を付け加えることができる。一つには先に見た幼児の直接観察からくる推測であり、そして最後には幼児の内的世界に関する基礎的な諸想定とそこからの諸推論が挙げられなければならない。一般にこれら四つの知の源泉に配慮しつつ我々はフロイトの理論を検討する必要があるのだが、今回はそこで「自己意識」が問題になる「自我論」に関係する限りに問題を限定する。

 その際に重要になってくるのは、最後に付け加えた二つの源泉、すなわち、直接観察による推測といわば思弁的ともいえる諸想定であり、そのため、「自我論」は精神分析の実践から独立したものとして取り扱いやすい、その意味で哲学的な取り扱いに適しているのである。

2、フロイトの自我論の出発点となる想定 「欲動」と「内」「外」区別 

 フロイトの自我論は自我発達の理論であり、それはフロイトの性理論の全体構想、そのいわゆる「リビード発達論」5)邦訳全集にしたがい、これまで通例となっていた「リビドー」ではなく、「リビード」という訳語を用いた。の中に位置付けられる。

 「リビード発達論」とは、性的欲求の発達理論であり、フロイトは人間の性の出発点を「多形倒錯」と「両性性」によって特徴付けられる「部分欲動の無政府状態」に見定め、そこから子どもが様々な経験をし、それを解釈していく中ではじめて異性愛を中心とする様々な「性的体制」が成立し引き受けられると考えた(『性理論三編』[5]他)。

 その枠組みのなかで「自我発達」も見ていく必要がある。我々の読解の基本的な観点は、精神分析が心的現実を扱うことと関連していることだが、「リビード発達論とそのなかに位置付けられる自我発達論とは、幼児自身が内的にどう世界を経験しているかを表現しようと試みるものである」というものである。

 具体的に自我の「発達」そのものに立ち入っていこう。その叙述をどこから始めるべきだろうか。前節の最後に指摘した幼児の内的生活についての基礎的な思弁的諸想定からだろう[10:211-216]。この想定こそフロイトが自らの理論を体系化しようと試みたいわゆる「メタ心理学諸編」の最初に置かれた「欲動とその運命」で取り扱われている「欲動」であり、フロイトの出発点は徹底的に「身体」である。

 フロイトの定義するところ、欲動とは「心的なもの」に対して「有機体内部から」、つまり、「身体内部から」発する不快な刺激であり、それを解消するように人を行動へと駆り立てる[10:211-212][10:214]。一番分かりやすいのは「飢え」や「乾き」だろう。それを我々は喉やお腹のあたりの不快な刺激として感じ、しかるのちそれによってその解消を目指す行動へと促されるのである。

 幼児は欲動の不快な刺激に動かされて、その満足としての快を追求する。幼児は「快原理(Lustprinzip)」に動かされている。

 そして、自我論の観点から決定的なことだが、ここでフロイトが重視するのは、身体内部からくる欲動の内的刺激は外からやってくる外的刺激とは性質が違うということである[10:212]。外的刺激は一回的である、というより、例えば体が熱いものに触れたらそこから離れればよいというように、それから筋肉運動を通じて即座に逃れられることで一回的なものとして処理しうるのに対して、欲動の内的刺激はいくら体をばたばたさせても解消されないという意味で恒常的である。

 そしてフロイトはここに赤ん坊の世界経験の根源を見る。赤ん坊は、まだ不快と快以外に関心を持っていないのだが、まさにその不快に関して、この質の区別にぶつかり、初めて内と外とを識別する指標を得る[10:212]。この逃れ得ない不快としての「内」に「内なるもの」としての「自我」の起源がある。フロイトに言わせれば、自我とは原初的にはこの逃れがたい不快なのである。

 以上のように言うとき、フロイトが「欲動」としてまず想定しているのは、彼が「自己保存欲動」と呼ぶ「飢え」「乾き」と排泄に関わる欲動である。これが満たされなければ人間は死んでしまう。先に確認したのは、「欲動」の恒常的な不快が「内」「自我」を初めて赤ん坊に感得させるということだった。

 次に考えるべきは、欲動の不快緊張の解消の有様である。重要なのは、その解消がどれも内と外との交通、すなわち、食物の摂取と排泄物の排出によるということである。だから赤ん坊の心的世界において、その交通が起きる場所、内と外との交通路、つまり、諸々の「穴(口唇・肛門・尿道)」がそれを通じて不快が解消される場所、「快」の場所として浮かび上がってくる。

 恒常的な欲動刺激が「内」と「外」とを区別させ、その不快な刺激の解消において身体表面、とりわけて「穴」が快の場所として浮上する。

 この快の経験から赤ん坊が自らの身体で快を獲得しようと試みる口唇的なおしゃぶりなどの「自体愛的」な活動が生じてくる。この「性欲動」の発生プロセスをフロイトは性的部分欲動の自己保存欲動への「依托(Anlehnung)」[5:82][10:218-219]と呼んでいる。自己の「身体表面」、とりわけ「穴」で快を追求する原初的な「性欲動」は「自己保存欲動」に「依りかかる」形で生じるというわけである。

3、フロイトの「混乱」―「快-自我」と「現実-自我」をめぐる錯綜 

 以上の原初的な「内」「外」区別、そして二種類の欲動の区別を前提として本題に入ろう。ここまでは一切が明確だが、「内」と「外」の区別に関してフロイトは次の局面で我々からすれば「錯綜」「混乱」と見えることを述べている。まずはフロイトの叙述を確認しよう[10:226-229]。フロイトの叙述を見ると、先の最初の区別の後に二つの欲動の種類に対応する二つの動向を想定していることが分かる。

 第一は、性欲動の自体愛的な側面に対応する動向だが、この面に関していえば赤ん坊は自分の身体だけで一切を満足出来るわけで、そこでは「内」、より正確には「表面」と「穴」が快の場所であり、「外」はどうでもいいものとして無関心なまま放置されるという[10:226-228]。

 フロイトの理解によれば、ここでは先の「内」「外」区別から逸脱することはなく、身体の「穴」や「表面」の快が追求されており、ここで赤ん坊の自我は「客観的な基準に従って内と外を区別する」「現実-自我(Real-Ich)」[10:228]であるという。

 第二は、フロイトが「現実-自我」から「快-自我(Lust-Ich)」への転換と呼んでいるものである[10:228]。これは自己保存欲動の経験に対応するものであり、そこでは赤ん坊はどうしても自分だけでは解消出来ない欲動の不快、それこそ原初的とされた不快を経験せざるを得ない。ここで以下のようなプロセスが生じるという。

快原理の支配のもとで、いまや自我の内でさらなる発達が生じる。自我は対象が快の源泉である限りで自らの自我のうちへと取り上げ、それを自らへ取り込み(…)、自らの「内」において不快の要因となるものは自らから押し出すのである。[10:228]

 赤ん坊はまず不快の質の区別、外的刺激の一回性と欲動不快の恒常性の差異により現実に即した形で「内」と「外」を区別した。初期の「性欲動」の自体愛的な活動は自らの身体のみで満足し、「外」には無関心だが、フロイトによれば、ここでは「内」と「外」の区別の客観性は保持され、「現実-自我」が維持される。

 だが、「自己保存欲動」の更なる経験において「快原理の支配のもと」、「(客観的な)外」のうちで「快」なものは「自我」にとりこまれて「内」とされ、「(客観的な)内」のうちで「不快」なものは「自我」から排除される。こうして「内」と「外」、「自我」と「その外」の区別は客観的でなくなり、「快」に即して歪められたものとなる。ここにおける自我は「快-自我」である。

 しかし、このような「快-自我」の維持はいかにして可能になるのか。「内」には事実的に不快な欲動刺激があるのに、いかにして「不快」を「外」に追いやり、「内」を「快」で満たしうるのだろうか。ここでフロイトが「心的生起の二原理についての定式」[8:230-238]で述べている「幻覚的満足」の議論を援用するべきだろう。

 この短い論文でフロイトは「快原理」と「現実原理」という「心的生起の二原理」、前者から後者への「転換」を論じているのだが、ここですでに「快-自我」と「現実-自我」という術語が登場しており、それらは明らかに先の二原理に対応させられて論じられている[8:234][8:235-236]。主題となる「快」から「現実」への「転換」は以下のようにまとめられている。

私は、心的な安静状態は原初的には内的な必要による命令的な要求によってかき乱されたと想定する。この場合、思考されたもの(願望されたもの)は、今でも毎晩我々の夢思考で起きているように、単に幻覚的に措定された。期待された満足が到来しないこと、失望によって初めて、幻覚的な道において満足を追求する試みが結果として断念されたのである。その代わりとして、心的装置は外界の実態を表象し、現実的な変化に向けて努力することを決断しなければならなくなった。[8:231]

 「快原理」「快-自我」は「幻覚的満足」を用いる。それが挫折して初めて「現実原理」が導入される。もう少し詳細に展開すれば以下のようになろう。赤ん坊は客観的な知覚と主観的な想像をまだ区別しておらず、かつてあった快を想起的に想像しつつ幻覚的に再現しようとする。

 幻覚的に満足を再現しようと試みることは、「内」を快なるもので空想的に満たし、不快なものは「外」に追い出すことを意味する。自己保存欲動の不快な刺激に対する幻覚的満足の能力が、母親の密着によりある程度欲動が即座に満たされることとあいまって[8:231 注4]、「内」を「快」で満たす「快-自我」へと赤ん坊の自己像を歪めてしまうのである。

 この「快-自我」はいつまでも母が密着してくれているわけでもなく、幻覚的満足の努力には限界があるということによって挫折し、赤ん坊は見えており感じられているものが本当にあるのかを確認する、つまり想起ないし想像と知覚とを区別する「現実検証」、すなわち「現実原理」に従うことを強いられることになる。

 以上で最初の「内」「外」区別に続く二つの動向についてのフロイトの論述が整理されたことになる。このどこに「混乱」ないし「錯綜」があるのだろうか。問題は「内」「外」区別に関する二つの動向の関係である。

 フロイト自身は両者の関係を時間的移行の論理で捉えている。「欲動とその運命」では、先に引用したように「現実-自我」から「快-自我」への移行が論じられ[10:228]、「心的生起」論文ではこれも先に引用したように「快原理 = 自我」から「現実原理 = 自我」への移行が論じられる[8:231]。

 これを整合的に解釈するなら、「現実」「快」「現実」の順番で「自我」は自らの形態を変えることになるだろうが、フロイトがそのような整合性を明示しないまま、二つの逆の移行を論じていることは、むしろ「現実-自我」と「快-自我」の関係を時間的移行の論理で捉えるという解決の妥当性を疑わせる。

 さらに決定的なのは、「現実-自我」の継続の動向は自体愛的な「性欲動」に対応するのに対し、「快-自我」への変化は「自己保存欲動」に即するとされている点である。二つの並行的に存在する活動に即する二つ動向の関係が時間的移行の論理で捉えられるとは思われない。

 ここに「混乱」ないし「錯綜」がある。両者の関係をどう考えればよいのかという疑問が残るのである。ここで考え付く一つの解決策は、我々の「内」と「外」の区別にも二つの系列があり、以上の二つの議論の流れは根本的にはそのそれぞれに対応しているのではないかというものである。次節以降ではこの方向でフロイトの自我論の改釈を試みる。

4、「内」「外」区別の二重性―「主体平面」と「対象平面」

 本節はテクストを離れて原理的な考察を行う。我々が世界を虚心坦懐に経験してみると、もっとも根源的な事実は「現れている」というものだろう。まずもってあるのは「現れ」である。だが、即座に気付くのは「内」と「外」と呼ぶことの出来るような区別が我々にあって二つ成立していることである。

 第一の区別は「主体平面」における区別とでも呼びうるものであり、その本質は「現れ」自身が「現れる」という意味での「現れ」の自己関係化である。つまり、「現れ」がまずあるのだが、我々には「現れている」という事実そのものも「現れている」のである。

 より正確に言えば、「現れ」は「現れ」自身が「現れ」ているときにのみ、真正な意味で「現れ」である。というのも、「現れていること」自身が「現れ」ていなかったら、それは「現れ」というよりは、端的に「ある」ものとして、いわば「物自体」として考えられるからである。

 「現れ」が自己関係にもたらされ、それ自身「現れ」るときにのみ、それは正しく「現れ」として感受されうる。我々は自分が「見ている」こと自身を「見ている」ことによって、「見え」を「私にとって」「見えている」ものとして初めて捉えうるのであり、それを世界そのもの、物自体から区別しうるのである。

 ここに「内」なる「現れ」と「外」なる「世界自体」との区別が成立する。さらに言えば、「現れ」は自身「現れ」ていることによって、それに対して「現れ」があるところのものとして「私」に関係付けられるようになるのであり、この「私」は「一切の表象に伴いうる」「私が考えている」という「私」として、カント風にいえば「超越論的統覚」である6)Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft, Felix Meiner Verlag, 1998, S.B 131.。そして、この「私」への自己参照こそ「自己意識」の意味するところである。

 第二の区別は「対象平面」における区別とでも呼びうるものだが、それはこの「現れ」の内側にも、ある別の「内」と「外」の区別が成立していることに注目する。つまり、「身体」と「外界」との区別であり、現れてくる一切の中で「身体」が「内」なるものとして特権的な地位を占めているのである。

 そして重要なのはこの二つの区別の重なり合いである。我々にあって「現れ」は自己関係にもたらされ、「現れ」はそれ自身「現れ」ることで「私にとって」現れているものとなり、私に現れているもの、つまり「現象」と世界そのものという「内」と「外」の区別が成立するのだが、この「現れ」のうちにも「内」と「外」の区別がある。

 それが「身体」とそれ以外の「外界」の区別である。そしてこの二つは、世界がそこに現れ、そこで感じられ、そこで見られている「私」はこの「身体」に属している、そこに「局在化」されているという仕方で繋がっているわけである。

 こうまとめられるだろう。もし自己関係化なしの「現れ」、つまり、「自己意識」なしの意識が想定されうるとすれば、そこでは単に「現れ」があるだけであり、それはそれ自身「現れ」ていないことで、「現れ」として捉えられることはない。それが捉えられるということがもしあり得るとするならば、それは端的に「ある」ものとして、「物自体」として捉えられる。

 だが、「現れ」が自己関係にもたらされるとき、「現れ」がそれ自身「現れ」るとき、言い換えれば、「見ている」ことがそれ自身「見られる」とき、事態は一変する。

 「現れ」は「単なる現れ」になり、「外」なる世界「自体」に比して「内」なる「現象」となり、さらに、それに対して「現れ」が「現れている者」、すなわち、「見ている者」がいることが知られる。それが「私」だが、それは続いて「現れ」のうちの「内」である「身体」に局在化されるのである。この「私」の「身体」への局在化は一般に「心身の統一」と呼ばれているものである。

 そして問いはこうなる。以上の全連関はいかにして成立するのか。我々の仮説はこうである。フロイトが先に見た議論を通じて論じているのは二つの区別とその連関の生成過程なのではないだろうか。

5、フロイト自我論の改釈―不安・主体・対象の同時性としての外傷

 このことを示すように試みてみよう。フロイトのもっとも根源的な想定である「欲動」によって、すでに後に「心的なもの」と呼ばれるようになるような「現れ」の場が立てられている。赤ん坊にも何かが「現れ」ている。その「何か」とは不快な刺激とその解消としての快であり、赤ん坊は不快を察知して快の方へと動こうとする。赤ん坊は「快原理」に従う。

 その不快にも二種類あって、それは一回的な外的刺激と恒常的な欲動刺激であり、もちろん、後者の欲動刺激への対処がより重要である。この二つの刺激の質的差異に即して「内」と「外」の区別を立てる可能性がはじめて与えられる。

 さて、この区別はフロイトに言わせると結果的に「身体」と「外界」の境界に沿う形で「内」と「外」を分ける「客観的」「現実的」な区別であり、ここに生じる「内」は「現実-自我」である。これは「現れ」の中で生じる区別として、我々のいう「対象平面」における区別であることは明らかだろう。

 そして先に二つの動向として提示したフロイトの錯綜する議論のうち、性欲動の自体愛的側面に対応し、自分の身体で欲動を満足させることで「表面」を快と見なし「外」をどうでもいいものと見なす動向は、この「対象平面」における区別を精緻化する方向と見なしたい。

 この見方を正当化するために、ここで『自我とエス』でのフロイトの議論の展開を差し挟もう。

 そこでのフロイトによれば、「自我」とはそもそも「[身体]表面の投影(Projektion)」[13:253]である。言い換えれば、「自我」とは「私とは何か」に具体的な答えを与えてくれるもの、「私は…である」の「…」に当たるような「内容」ないし「述語」の集積、一言で言えば「自己イメージ」なのだが、それは原初的には「身体表面」に即して生じる身体のイメージとして生成するというわけである。私についての具体的なイメージのうち「身体イメージ」こそもっとも具体的であり、幼児にとってもっともアクセスしやすいものなのである。

 そしてこのような「身体イメージ」としての「自我」の生成についてフロイトが重視しているのが自分の身体を触るという経験である[13:253]。

 世界の「現れ」において、まずはそもそも外界の対象と自分の身体との区別はない。確かに不快な刺激の質における差異が「内」と「外」の区別をすでに原初的に可能にしているが、この「内」と「外」の区別をさらに精緻化し、「身体表面」を確定し、その「投影」として原初的な「自己イメージ」=「自我」を発生させる活動として何があり得るだろうか。

 「外界」と「身体」を区別せしめるものがあるとすれば、それは自分の身体に触れることが外界の対象に触れるときとは違う二重の感覚を生じさせるという事実だろう。フロイトは言う、「自身の身体、とりわけその表面は、そこから外的知覚と内的知覚が同時に発しうる場所である」[13:253]。

 しかるに、ここで発するべき単純な問いは、なぜ赤ん坊は自分の体を触るのかというものである。その答えはそれが「快」を与えるから以外にありえない。そもそも赤ん坊にとって「快」以外に重要な感覚などないのである。

 だから自我形成のプロセスにおいて自体愛的活動が決定的なのである7)これに対してラカンは自我形成において鏡で自分を見るという経験を重視した(鏡像段階論)。Jacques Lacan, Écrits, Seuil, 1966, pp.93-100.。赤ん坊は二重の感覚がもたらす余計な「快」に導かれて自らの体をいろいろと触ってみる。そうしてその余計な「快」に自分の身体という対象の特異性を認める。

 こうして赤ん坊は自らの身体イメージを明確にし、ゆくゆくは「私はどんな人か」への具体的な答えとなる「自我」の原基を確立していくのである。この意味で自体愛的な活動は、欲動刺激の質に依拠する原初的な「内」「外」の「対象平面」における区別を精緻化して、人を「自我」の確立へと導く。

 しかるに、原初的には「身体イメージ」として与えられる自我、「私はそれだ」の「それ」にあたる「自我」だけでは全ては尽くされない。この「私は」の方はどこから生じるのだろうか。「私」なるものをわざわざ参照する必然性はどこに淵源するのか。これは我々の言葉でいえば「主体平面」における区別に相当するが、我々の読解の指針によれば、先に第二の動向として見たフロイトの思考はこちらに説明を与えるものなのである。このことを見ていこう。

 第二の動向とは、「快」なるものは「内」であり、「不快」なるものは「外」であるという「快-自我」という世界像へと経験が歪められることである。

 「現実-自我」の発想からすれば、(「表面」ないし「穴」は自体愛的活動によって「快」の場所であるにせよ)「内」は不快の場所であるのだが、事実的な「不快」の経験の中で世話によって与えられた満足を幻覚的に再現するような努力において、赤ん坊の心のうちで「不快」はないはずのものとして「外」へと追いやられ、「快」が幻覚され「内」を満たすことになる。そして、これは母親の世話が一定の密着性を持っている限りは維持されることになろう。

 そして注目するべきは、フロイトが先に引用した「心的生起」論文で指摘していた通り、この幻覚的満足が決定的な失敗に陥らない限り、赤ん坊は「幻覚的満足」に耽っていて、「現れているもの」と「現実」とを区別しないということである[8:231-232]。

 では、逆にこのことの失敗においては何が生じるのか。そこで赤ん坊は気付くだろう。「不快」が逃れ得ないものとして「内」にあるのであり、欲動を満たす「快」なるものは「外」にある。そして、これが決定的なことだが、「現れ」は「あるもの」と区別されなければならない。

 もっと正確にいえば、そもそも現に「ある」と思われているものが「現れている」に過ぎないということがありうることはじめておぼろげに知られるのである。ここに我々が「主体平面」における区別と呼んだもの、「現れ」の場所そのものの自己関係化の萌芽がある。

 「ある」と思っていたものが本当は「なく」、「現れている」「見えている」「感じられている」に過ぎないと分かる。すなわち、ここで「現れている」ということそのものが「現れる」のだ。そして「私」なるものを参照する可能性一般は、この「感じられている」というときに「感じている者」という仕方ではじめて与えられるだろう。

 「感じていること」の自己関係化による「感じられているもの」と「あるもの」の区別が「感じている者」としての「私」を参照する可能性、「自己意識」の可能性をそもそもはじめて与える。すると人間が自己意識を持つのは、人間が欲動を持ち、それを満足させようとする幻覚的な「想像力」を持っていることで、「あるもの」と「感じられているもの」との区別に直面せざるを得ない状況をぶつかるから、そうして「感じている者」を参照するようになるからだということになるだろう。

 この「現れ」と「存在」の区別は、すなわち、「主観」と「客観」の区別だが、実際、フロイトは「主観」と「客観」の区別について「想像力」が構成的であることを論じている[14:14]。「現実」以上のものを「想像 = 幻覚」する能力があるからこそ、その「現実」と「想像=幻覚」との落差の経験において、現にあると思っていたものが「感じられている」にすぎないこと、「感じている」ことそのものが「感じ」とられ、そうして「感じている者」としての「私」に言及する必要と可能性が与えられ、さらに単に私に感じられているものと現実とが区別されるようになるのである。

 この失敗、「快-自我」の破綻がいかなる経験であるかをより精密に捉えよう。幻覚的満足の努力は「不快」を自らから遠ざけようとし、同じことだが「快」を自らに引き寄せようとする。

 しかるに、これをいつまでも維持することは出来ない。「不快」が消え去らず、「快」が到来しないということを赤ん坊も認めざるを得ない。こうして「快」の不在によって「快」が外からやってくるものであることが判明する。

 そして、これまで赤ん坊が一方では自体愛的な快のために、他方では幻覚的満足のために、「外」にはとりわけて興味が無かったことを考え合わせるなら、ここではじめて「外」が「快」を与えてくれるものとして適切に関心を向けられるようになる。ここではじめて「外」なるものとして「対象」が赤ん坊の心に生成する、そもそもの初めから「喪失されたもの」として。

 そして他方の「内」に注目してみるなら、ここでははじめて「現れ」が「感じられている」に過ぎないものと捉えられて「現実」から区別されるとともに、「感じている者」としての「私」に言及する可能性がはじめて与えられる。

 この出来事の連関を考え合わせれば、以下のようにテーゼ化することが出来るだろう。「私」なるものは原初的には「対象の喪失」のかわりに、対象が喪失された場所に現れる、と。いや、もっと正確にいうなら、「私」なるものは「対象の喪失」の代わりに現れるのだが、そもそも「対象」もそこで「喪失されたもの」としてはじめて現れる。だから対象発見は必然的に再発見だとフロイトは述べたのである[14:14]。

 しかもこれらは欲動の不快な刺激の切迫の中で、つまり、フロイトが定義するところによれば原初的な「不安」にして「外傷(Trauma)」のなかで遂行されるのである(「制止・症状・不安」第八節[14:162-174])。

 「主体平面」で現れる「私」を「対象平面」で現れる「自我」と区別して「主体」と呼んでおくとすれば、「主体」は「喪失された対象」と相関的に「不安-外傷」のなかではじめて生じると言えるだろう。フロイト的思考に従えば、自己意識とはその起源において「ある」と思っていたものが「無い」ことによる「不安」に対応しているのである。

 以上の「現実」と「現れているもの」の区別の生起によって、「現れているもの」は本当に「現実」なのか、それは本当に「ある」のかを調べる「現実検証」が可能になり、幼児の心は「現実」に配慮するようになる。つまり、「主観 = 単に現れているもの」と「客観 = 現実」が区別され、「客観性」のための場所が創設される[14:14]。

 かくして幻覚的満足を貫徹しようとする無制約の「快原理」が現実に配慮しつつ快の実現を目指す「現実原理」に置き換えられはじめることになる。これは「知」の誕生を意味する。

 さて、我々はここまで「現れ」の場所の自己関係化としての「私 = 主体」の生成と、「現れ」内部における「外界」と「身体」の区別の生成、つまり「自我」の生成をフロイトの論述に沿う形で追求してきたのだが、いまや両者が重なり合う必然性、「私はそれだ」「これが私だ」という「同一化」、「私」による「自我」の引き受け、「私」の「身体」への「局在化」が起きる必然性を我々は理解出来るだろう。

 「主体」とはまずもって「感じている者」であり、「身体 = 自我」とはそこにおいて「二重の感覚」が与えられるもの、つまり「感じている物」である。だから「主体」は「身体」に同一化するのであり、そこに「自己イメージ」としての「自我」の基礎を見出すのである。

 また別様にも表現してみよう。「見る」こと自身を「見る」ということが生起するとき、この後者の「見る」はいまや一切を「見る者」として見られることはないが、他方で「見る」ことを「見る」ことによって、「見ている者」がいることは知られている。

 この「見ている者」が「私」と呼ばれ、それが「身体」に局在化される。こうして我々の通常のあり方、「実存」の基本的構成が成立する。我々は世界を見ているが、見ていることも見ており、そうして世界を「私」が見ているのだということを知っているのであって、その「私」を「身体」に属しているものとして把握しているのである。

 最後に以上の解明の立場から、フロイトが「快原理の彼岸」と呼んだ「死の欲動」の簡単な位置付けを試みよう(「快原理の彼岸」[13:1-69])。幻覚的満足の失敗による「現実」と「幻覚」との区別から生じる「現実原理」はあくまで「快原理」の延長、その現実的な「確保」である[8:235]。

 「快原理の彼岸」なるものがあるとすれば、それは喪失された対象を現実的に再獲得しようとする「現実原理」の中にではなく、むしろ、「快原理」と「現実原理」の狭間、すなわち、本節で明らかにした「対象喪失-主体の生成-不安」の同時的経験としての「外傷」のうちにしかない。

 かくして、おそらく真に「死の欲動」と呼びうるものがあるとすれば、それはこの「外傷」の「外傷性」の永遠性であるように思われる。原初の外傷は人間が自己意識を持つ存在として構成された根本的な経験なのであり、したがって絶えず回帰してくるのであって、ここに孕まれた人間の自己否定的な契機が「死の欲動」という言葉によって名指されていると考えることができるように思われる。

 その詳細な根拠付けは今後の課題だが、それは「快原理の彼岸」と「制止・症状・不安」の読み合わせによって果たされることになるだろう。

6、結論:第二局所論の再構成へ向けて

 以上の基本的考察をまとめつつ、第二局所論の再構成への道筋をつけておこう。我々のフロイトの「自我論」の「改釈」に従えば、「自己意識」は「欲動 = 身体」と「幻覚 = 想像力」を前提とする。

 「自己意識」は「欲動」満足に関わるある原初的な失敗から、つまり、「想像力」の働きのゆえに「ある」はずと思われていたものが、実は「ない」という経験から生じる。というのは、そのとき「ある」はずのものが、実は「現れている」だけだということが知られ、「現れ」自身が「現れ」て、あるいは「見ている」こと自身が「見られて」、「それに対して一切が現れている者」「一切を見ている者」を参照する可能性がはじめて与えられるからである。

 この者は「感じる者」としての「私 = 主体」だが、そうであることによって「感じる物」としての「身体のイメージ = 自我」に同一化することになる。

 これと第二局所論はどう関わるのだろうか。第二局所論は「エス」「自我」「超自我」の三つの次元で人間の心の働きを捉える(『自我とエス』[13:235-289]や「続・精神分析入門講義」[15:62-86]を参照)。

 「エス」は「快原理」で動く欲動の座であり、我々の議論では最初に想定された「欲動 = 身体」に相当する。「自我」はフロイトにとって意識と知覚の座であり、「現実検証」によって外界を適切に把握しつつ快を追求する「現実原理」で動く。

 この「自我」をフロイトは「エス」が外界に触れ「知覚」、すなわち「現れ」が生まれる「表面」として、また同時に「身体表面の投影」として把握した[13:253]。我々の議論はこの「身体表面の投影」について自体愛的活動の重要性を指摘し、また「身体表面の投影」への同一化が生じるために先行的に「私」への自己参照、つまり、「自己意識」が必要なことに注意を払う。

 この私への自己参照ということ、「私が私を見ること」、私の自己分裂はフロイトが「超自我」という自己を監視する道徳的審級を特徴付ける際に使った言い回しである[15:64-66]。かくして、「超自我」の力が人間の自己参照性を基礎付けた外傷的な出来事の不安に由来していることもいまや明らかだろう[15:68]。この自己参照性と不安が人間を「エス」と「自我」との領域、つまり「快(原理)」と「現実(原理)」の外部へと開いている。それは「快原理の彼岸」なのである。

 かく、我々が前節で明らかにした連関は我々の「実存」の基本的存在様式を説明するのみならず、フロイトの第二局所論の核をも説明しうるのである。

 幻覚的満足の破綻において生じる「対象喪失-主体の生成-不安」の同時性としての「外傷」は、「快原理」-「快-自我」が行き詰まり、「現実原理」-「現実-自我」への転換が生じる出来事、そうして「エス」からの「自我」の分化を決定的にする出来事だが、そういう狭間の出来事として、それは「自己意識」を創設するのみならず、「快原理」と「現実原理」の彼岸、「エス」と「自我」の彼岸、「死の欲動」と「超自我」のための場所を開く出来事でもあるのだ。

 「自我」「エス」「超自我」は明らかに伝統的な「知」「情」「意」に対応するものだが、我々は以上で到達された地点から、人間的な生、つまり「実存」の根本構成をさらに詳細に考え直してみなければならないだろう。

文献リスト

 フロイトからの引用はSigmund Freud, Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband, S. Fischer Verlag, 1999.に依拠し、[巻数(:頁数)]と表記した。その際、邦訳の『フロイト全集』岩波書店、2006年~を参照し、参考にしたが、訳文は引用者が改めて作成したものを用いている。

References   [ + ]

1. セーレン・キルケゴール『死にいたる病』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1996年、27頁。
2. Martin Heidegger, Sein und Zeit, Max Niemeyer Verlag, 19 Aufl., 2006, S.12.
3. 例えば、タイトルに「哲学」を含むフロイトに関する以下の二つの論文集を参照。Michael P. Levine(Ed.) The Analytic Freud Philosophy and Psychoanalysis, 2000, Routledge. John Mills(Ed.) Rereading Freud Psychoanalysis through Philosophy, SUNY Press, 2004.
4. Ibid., p.127-128.
5. 邦訳全集にしたがい、これまで通例となっていた「リビドー」ではなく、「リビード」という訳語を用いた。
6. Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft, Felix Meiner Verlag, 1998, S.B 131.
7. これに対してラカンは自我形成において鏡で自分を見るという経験を重視した(鏡像段階論)。Jacques Lacan, Écrits, Seuil, 1966, pp.93-100.
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