「下ネタ」から考える—精神分析の教説への一つの入り口

 スラヴォイ・ジジェクはどこかで「言語においてすべてが「アレ(’that’)」を意味しうる」と述べている。この言葉が何のことを言っているのかをもしあなたがすでに理解しているとすれば、それはこの言葉そのものと、今後の議論の展開を正当化する意味を持つだろう。

 というのも、それは「アレ」という最高に一般的な指示語さえも、「アレ」を特別に指示しうるということを証明しているからである。さて、もちろんこのジジェクの言葉は「下ネタ」のことを言っているのである。

 ここにさらに例を付け加えることができる。「アソコ」「ナニ」「モノ」、これらは、指示代名詞、疑問詞、単なる名詞の違いはあれど、どれも極めつけに一般的な指示能力を持つ言葉であり、それでいて、このように表明されたとき、極めて正確に、特定のもの、あるいは少なくとも、「一群の」特定のものを指し示す。

 ところでここで興味深いのは、(1)「あそこ」「なに」「もの」ではなく、「アソコ」「ナニ」「モノ」といったときにこそ、その含意が明確になること、そして、(2)「ココ」ではなく「アソコ」、英語でも「this」でなく「that」だということである。

 さて、もちろん、この二つのことは一つのことに帰着する。それは「遠さ」である。カタカナは外来語に使われ、「カタカナデブンショウヲカクト」、機械か片言の外国人がしゃべっているかのようなニュアンスを持つ。それは、日本語そのもののなかで、どちらかといえば「遠い」ものなのであり、「ココ」に対する「アソコ」も、遠さ、距離を表現する。

 ここから、性と言語の関係、この極めて興味深い「敵対的」な関係の一端を垣間見ることができる。

 すなわち、「性」的なことは、それに対する直接の語りが禁止されることで、極めて一般的な指示能力を持つ語を通じて、自らを表現するようになる。ソレは、言語によって、その「具体性」においては排除されながら、そうすることで、言語の最も「抽象的」な次元を汚しているのである。

 だが、そのような間接性を通じてさえ、ソレは言語にとっては遠いものである。だから、「これ」ではなく「それ」、「それ」であるよりも「あれ」、そして最も的確には「アレ」なのである。

 さて、そういうわけで、「下ネタ」を通じて、ということはつまり、隠喩的、あるいは象徴的な関係を通じて、言語において全てがいわば間接的に「アレ」を意味しうるということになるわけだが、これは「アレ」が全てを支配していることを意味しているだろうか。

 ある意味ではそうだろうが、単純にそうであるのではない。というのも、単純に「アレ」が全てを支配しているならば、人間は直接に「アレ」について述べ、ただそれだけを述べていればよいし、もっといえばそれだけを単に「述べる」のではなく端的に「して」いればよいからである。

 したがって、「下ネタ」が存在するということは、そのような直接性が不可能であるということ、「アレ」が何か言いえないこと、少なくとも言いづらいことになっていることを意味する。だから「下ネタ」を通じてそれを間接的に示さなければならないのである。

 さて、「下ネタ」は言語における隠喩的・象徴的関係、つまり、「ソレ」そのものとは別のものによって「ソレ」が指示されるような関係の代表的で支配的な一例であるが、ここで私たちは言語一般がそもそも「ソレ」そのものとは別のものによって「ソレ」を指示するようなもの、その意味で隠喩的・象徴的なものであることを思い出すべきであろう。

 そうすると、以上の「下ネタ」の例で示されたところから、言語の生成と構造について、何か触れ得ぬもの、アクセスしがたきものが出現することで、それを代理する語の無限の系列、言語のネットワークがそもそも初めて生じたのではないかと推測することが出来る。

 なんとなくハイデガー風に言えば、何かが言えないものとして「退去する(sich entziehen)」ことで、それを代理し、それを言わんとする言葉の無限の系列が生成するのである。ここですでにして象徴化(言語化)に抗う〈現実的なもの〉という欠如を中心として〈象徴的なもの〉、つまり「言語」が組織されているというラカン的な構図が典型的に現れていることは見やすいだろう。

 では、この〈現実的なもの〉とは何か。精神分析的な答えは、もちろん、その中心に「性」を据える。このことが、言語的な象徴的・隠喩的な関係における「性」の中心性、まさしく「全てが「アレ」を意味しうる」ということ、つまり、下ネタという現象の中心性によって正当化される。

 「アレ」といえば「アレ」なのであり、「アソコ」といえば「アソコ」なのであって、このような最高度に一般的な指示語が直ちに性的な意味を帯びることは、「全てが「アレ」を意味しうる」ことを傍証している。

 以上のような言語に対する性の位置付けのうちに、フロイトが『夢解釈』において、夢のなかの諸要素はさまざまな連関によって別の要素を指し示すが、ある種のものは常にある特定のものを指し示すというような定常的な関係が存在しており、それは「性」に関係するものであるとしたことの根拠を読み取らなければならない。

 フロイトはなんでも性に結びつけたと非難されることがしばしばあるけれども、精神分析の立場からの答えは、フロイトがそうなのではなく、私たちが、あるいはとりわけては私たちの言語が、先立ってそうしているのだというものになるだろう。

 そして、以上の論述から明らかになったことを期待したいが、少なくともこれは全くのデタラメではないのである。

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