本書は、はじめ2005年に出版された。私が持っているのは2014年の星海社新書版である。私は2005年に大学に入学し、当時から「おたく文化論」的なものには興味を持っていたから、この本のことも小耳には挟んでいたが、何かタイミングが合わなかったのか、ついに読むことはなかった。
その意味では、この本は私にとっては10年越しで読んだ本というわけで、結果として、かなり面白く読ませてもらった。以下では、私なりの仕方で、自分にとって記録となるように、せいぜい読書メモ程度のものではあるが、この本をごくごく簡単に要約しておこう。
簡単な要約
本書は『テヅカ・イズ・デッド』のタイトル通り、手塚の死を超えて、マンガ言説を再構築しようとする著作である。
手塚はあまりに偉大であり、ある意味では、手塚こそマンガ、「手塚 = マンガ」であって、少なくとも、ある種の「マンガ言説」においては、手塚の死とともにマンガも死んでしまったかのようだ。手塚が1989年に亡くなり、90年代には、「マンガはつまらなくなった」言説がまことしやかに語られていたのである。
著者は、これを本当に「マンガがつまらなくなった」わけではなく、「マンガ言説」の方がマンガの現在に追いつけていないだけだとする。
そして、著者によると、このことは「マンガ言説」が手塚の存在を絶対視し、手塚のうちにマンガの起源を見、「手塚 = マンガ」という等値を行う限りで必然的なのである。
手塚から出発して、マンガの発展の歴史を、マンガが映画的・文学的なリアリズムの取り込みを通じて、リアリズム、つまり、「人間を描くこと」において進歩してきた歴史、「ストーリーマンガ」の歴史と捉えるとき、必然的に見えなくなってしまうものがあるのだ。
それが見えないことこそが、マンガをマンガとして捉えることを妨げ、手塚の死以後、マンガを肯定することを困難にしているのである。
マンガの歴史を、リアリズムにおいて向上していく歴史と見ること、マンガが文学や映画に近づいていく歴史と見ること、マンガがそうしてストーリーマンガとして成熟していく歴史と見ること、それではマンガをマンガたらしめている固有性を見ることはできない―マンガ表現論が成立しないのだ。
そして、著者によれば、ここで具体的に見えなくなっているものとは、リアリズム的な、「人間性」をもった「キャラクター」の背後にある、「キャラ」の次元であり、コマとページという二つの枠を持つマンガが必然的に背負った「フレーム不確定性」なのである。
このうち、より重要である「キャラ」の次元とは、「キャラクター」が「ストーリー」と一体化して、ある種の人生を背負ったもの、「人間的」な存在であるのに対して、その前提となる、そのキャラクターをとにもかくにも同一的なものとして認知させる図像のパターンと固有名のセットであり、この「キャラ」の魅力、物語に先行してそれとして認知されるキャラの魅力に、その「キャラクター」としての展開は依存しているのだという。
ある種の言説で「つまらない」とされている、90年代以降のマンガの状況を特徴づけているのは、「手塚・ストーリーマンガ・リアリズム」といった三つ組で定義できる「マンガのモダン」において隠蔽された「キャラ」が、ある仕方で回帰してくることである。
マンガの「ポストモダン」は、この「キャラ」が、「ストーリー」から、つまり、キャラに唯一の物語を背負わせ、人生を生きる「キャラクター」たらしめるストーリーから再び解き放たれることであり、それはキャラを物語から自立させる二次創作の隆盛や、86年に連載を開始した『ぼのぼの』における、ストーリーの完全な放棄と、その帰結として無時間的な空間で延々と続くキャラの戯れに現れていると、著者はいうのである。