岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』超簡易要約

 本書は2008年に刊行されている。発端は2006年に行われた『オタク・イズ・デッド』というイベントだという。私は見ていないが、そこで岡田は「オタクは死んだ」といって泣いたらしいとも聞く。「オタキング」と呼ばれた岡田が、いわば民族ないし国家の解体を宣言したわけだ。

 本書の主要な内容、つまり、以前に比べると「オタクならこうだよね」的な共通意識が存在しづらくなったという主張は、おそらく正しいのだろう。本書も述べているように、単純に「オタク」が増えすぎたせいもあるのだろう。

 本書はオタクの死を語るのに、SFの死を参考にしているが、まさにSFも「浸透と拡散」が語られたことがあった。なぜ岡田がこの言葉を使わなかったのかが逆によく分からないぐらいだが(もしかしたらどこかで使っているのかもしれない)、本書もまさに「オタクの浸透と拡散」を扱ったものといえる。

 内容について、ごくごく簡単にかいつまんで紹介していこう。

内容要約

 岡田の言いたいことは、オタク文化がダメになった、その作品たちが死んだということではない。ただ、アニメ・SF・ミリタリー・まんが・鉄道・ゲームなどの一群の趣味があり、そのそれぞれを好む人々が「オタク」という共同体意識を持ち、しかも、その共同体意識に「全員が同じ基礎教養を持つ」といった実質があるという事態が終わったということである。

 つまり、オタク族というコミュニティーが終わっただけであって、オタク文化に属するとみられていた諸文化そのものは存続していく、それに対するファンも「オタク」ならぬ「マニア」として存在し続けるのである。

 では、終わったものとは何か。それはまずもって先の一群の文化を「一群」たらしめる枠組みである。岡田は1981年の日本SF大会での伝説の「DAICON Ⅲ オープニング・アニメ」を「ぼくが あの時やろうとしたのは、確かにオタク文化の提示だったと思う」(p182)という。

「SF小説が、この世で一番ありがたい」というSFマニアの先輩・長老たちの高圧的な教えをふりきり、「アニメもマンガも特撮もフィギュアも美少女もメカもグッズも、全てが素晴らしいはずだ。全てを受け入れてみよう。そして僕たちの手で僕たちの文化を創造しよう」というメッセージを、全国から集まった数千人の仲間に向けて発信した。(p182)

 ここに列挙されている文化の共通点は、それが第一義的には「子供向け」のものであるということだ。岡田のオタクの基本イメージは、一般に「子供向け」とされる文化を、「自分はそれが好きだから」と敢えて自ら選択し、世間の批判の目を「意志と知性」で乗り越えていく存在だ。

 オタクは世間からは白い目でみられがちな、「早く大人になりなさい」と言われがちな趣味を選んだがゆえに、それを選び続けるための強い意志と知性が必要なのであり、それがオタクに理論武装を強いる。そして、オタクたちは世間の偏見を受ける側として、偏見に対しては禁欲的であり、他人をむやみに排除しない。

 そして、そのような社会から偏見の目で見られる一群の「子供っぽい文化」を「オタク文化」という仲間とみなして、それを好むおたくたちの間で共同体意識を持ち、「オタク文化」に属するものについては、とりあえず基礎知識を押さえておこうという発想を持つ。彼らはそれこそ「SFは千冊読め」という伝統を受け継ぐ勤勉な教養主義者なのだ。

 それがどのように壊れたのか。岡田はオタク世代論を立てている。これは1960年前後生まれを第一世代、70年前後生まれを第二世代、80年前後生まれを第三世代という東浩紀的な分け方にほぼ沿っていると考えて問題ないだろう。

 さて、議論を進めると、岡田は自分を含めた第一世代は貴族主義だという。つまり、自分たちはもともと一般人とは違うんだという発想である。

 私たちは貴族だからオタク文化がわかるのであって、そうではない一般人にはわからなくて当然、ただ、私たちは貴族だからノブレス・オブリージュの意識で頑張って教養を積むし、施し的に一般人にも面白さを伝えてやらないではないという態度だ。

 それに対して第二世代はエリート主義だという。つまり、「生まれつき違う」のではなく、「頑張って勉強して分かるようになった」という感覚。彼らはオタク文化は良いものだから、一般人もわかるようにと啓蒙する。

 これはオタク差別の激しかったこととも関係しているという。オタクは理論武装に励み、一般人に対抗する。第二世代のオタクがアカデミズムと相性がいいのもそのためだという。具体的には71年生まれの東浩紀と森川嘉一郎をあげている。

 ただ、いずれにせよ、教養主義的な勤勉さは変わらない。それと異なるのが80年代生まれ以降の第三世代だ。これを岡田は「萌え」中心の世代とも同一視している。

 この世代にとっては、岡田の言葉を借りればオタクは「アイデンティティーの問題」である。「第三世代の人たち、「萌え」中心の世代にとってオタクというのは自分の中の弱さを認めて、現実を忘れて逃避する場所でもあるから」(p148)と岡田はいう。

 そこで「オタク」とは自分はなんであるかという問題であり、自分とべったりなのであって、自分にとって面白くない「教養」などとはなんの関係もない。自分の感じる快楽、「萌え」がオタクを定義するのであって、「萌え」がわからない人はオタクではない(と岡田は言われたことがあるらしい)。

 ここには「教養」的に学んでいこうという勤勉さがなく、世間に白い目を向けられる者たちが持つ連帯感と寛容さがない。世間と同じように異質なものを排除する存在だ。岡田に言わせれば「えっ、オタクって、頭が良いと思ってきたんだけれども、最近はバカがいるんだ」(p35)というわけである。

 こうして、オタクなる共同体は終わり、確認はマニアとして自らの趣味を突き詰めつつ生きていくしかないだ。

 最後に岡田は、オタクの死を「昭和の死」「戦後日本社会の死」といった大きな問題と結びつけている。

 曰く、高度経済成長からバブルまでの成長社会がオタクの「勤勉さ」の条件だった。しかし、現在はもはや成長なき時代、つまり、「社会に出たら、大人になったら、「損」」という時代である。だから、誰も大人になろうとしないし(=オタクの急増)、誰も学ぼうとしない(=自分の感情が大事)。

 だが、このオタクの急増により、オタクは死んでしまった。もはや一人一人を守ってくれるオタク族という共同体はないので、各人が自分のペースで趣味を深めていくしかない。そのためには少しの「損」は自ら引き受ける「大人の知恵」が大事になると、最後に岡田は述べている。

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