『教養としての〈まんが・アニメ〉』要約 著:大塚英志・ササキバラ・ゴウ

 2001年に出版された本書は、まんがやアニメについて学生に教える立場にある著者二人が、学生たちに向けて、語り継がれるべき作品を伝えようとする試みであり、戦後のまんが・アニメの歴史において、さまざまな画期をなした作家についての10講から成っている。死ぬほど勉強になる、一度は読んでおくべき名著である。

 そこで伝えられているのは、「まえがき」に述べられている通り、戦後まんが・アニメの作家たちが成し遂げた技術的革新のみならず、その技術的革新を必要ならしめた主題であり、またそれらを同時代的に体験した著者二人の私的な体験である。

 私的な体験を基礎として、さまざまな作家における主題と技法の連関を語り継ぐこと、著者たちが伝えたいのは、最終的にはこの「語り継ぎ」という立場そのものだというのだ。

 さて、以下では全10講の内容をしっかり要約していこう。

本書の要約

第1講 手塚治虫

 本講は、大塚の手塚論のコンパクトな要約となっており、かつまた大塚が書いている本書の「まんが」部門全体を統べる地位にあって、本書全体の中でも白眉だから、特に詳しく見ておこう。

 議論は、手塚自身が主張し、またよく知られてもいる「まんが記号説」から始まる。まんがは現実の人間を写生するのではなく、特定の感情を表現する簡単な図像(表情の絵)のパターンの組み合わせでできているという説である。

 大塚によれば、これを手塚はまんがについての積極的な定義として提示したのではなく、むしろ、その限界を示すものとして述べていたのである。それはデッサンコンプレックスを持っていた手塚によるおそらくは自嘲的な自己規定なのだ。だが、その手塚の弱みにこそ、大塚は手塚とまんがの最良の可能性を見出す。

 すなわち、手塚のまんが、そして戦後まんがの可能性は、それが「記号的表現」によるものであるにもかかわらず、「現実的身体」を描写の主題として抱え込んでしまった、その矛盾にこそあるのだ。

 さて、ここからは私などは何度読んでも泣ける話、大塚お得意の『勝利の日まで』論が展開される。『勝利の日まで』は、敗戦間際、激化する空襲の中で手塚少年が書きためていたまんがであり、戦前の日本まんがの「記号的」な人気キャラクターがそれこそ「総動員」されるギャグまんがである。

 そこに大塚はある種の痛ましさを読みとる。手塚少年は、「記号的」キャラクターを総動員して戦争体験をギャグ化することで、自分にも迫っている「戦争」と「死」という「現実」を何とか笑い飛ばそうとしているかのようなのだ。

 なぜ、それが可能なのか。それはディズニーアニメなどに典型的に見られるように、「記号的」キャラクターは死なない「記号的身体」をもっているからである。手塚少年は自分の知っている全キャラクターを「総動員」して戦争の現実に拮抗しようとしているのだ。

 だが、最後にやはり決定的な場面が描かれる。すなわち、トン吉くんという記号的キャラクターがミッキーマウス操るグラマンの機銃掃射を受け、「あっ」と叫びつつ出血するのである。ついに戦争の現実が、記号的表現によるバリアを打ち破り、キャラクターに「死にゆく身体」「現実的身体」を与えるのだ。

 ここでは「現実」が、もはや戦前の記号的表現では太刀打ちできない表現対象として現れてきているのであって、手塚の表現の努力は、この「現実」を表現するべく進歩していくのである。

 かくして、大塚によれば、ここに生じた「記号的表現」と「現実的身体」の間の矛盾にこそ、手塚まんがと戦後まんがを規定した「起源」が存在する。この意味で戦後まんがは、正確に、「戦後」まんがだというのである。

 続いて、大塚は、この「記号的表現 = 身体」と「現実的身体」との矛盾を、例えば、手塚の代表作である『鉄腕アトム』にも見いだしていく。

 アトムは天馬博士によって、早逝した息子トビの代わりとして作られたものの、「成長しない」という「恐ろしい欠点」のため捨てられてしまう。大塚曰く、この物語は手塚まんがが抱え込んだ人工的な「記号的身体」で、成長し死にゆく「現実的身体」を描かなければならないという矛盾に正確に対応しているのだ。

 さて、実はアトムの第一話である『アトム大使』にはアトムが大使としての責務を果たすことで、ある仕方で大人になるというビルディングスロマン(成長物語)的な結末がついていたのだが、物語を続ける要請から、この結末はなかったことにされてしまう。

 こうして、「大人になれない身体を抱えた子供はどうやったら大人になれるのか、という「アトムの命題」」(p35)、すなわち、戦後日本が抱え込むことになった(それこそ著者曰く「おたく」もその一つの典型である)「成熟の困難」という問題が後に残されることになったというわけである。

第2講 梶原一騎

 次に扱われるのが、手塚とその直系たるトキワ荘グループとは、また別の出自、つまり、劇画系統に属する梶原一騎のまんがである。梶原は、高度経済成長期であった60年代の思潮に合致した『巨人の星』『あしたのジョー』といったビルドゥングスロマン(成長物語)を『少年マガジン』に連載し、一世を風靡したまんが原作者である。

 ここでも大塚の基本的読解図式は「成長しない記号的身体」と「成長する現実的身体」との矛盾である。

 『巨人の星』の主人公、星飛雄馬は野球において大成しようとするものの、それこそアトムと同様に「致命的な欠陥」として、体が小さすぎるという問題を抱えており、それを克服するために父に教え込まれた「魔球」を使うしかない。

 アトムが天馬博士に成長できない身体を与えられて、しかも成長することを求められたのと同様に、飛雄馬も父一徹にプロ野球選手としては小さすぎる身体を与えられ、その上で野球選手として成功することを求められる。

 ただ、アトムは天馬博士に捨てられるのに対して、飛雄馬が引き受けた運命は別のものだ。飛雄馬は、その身体的条件のもとで成功するために父仕込みの魔球に依存せざるを得ないのであり、そのためにいつまでも父から自立できないのである。

 ここで父は「息子の成長を禁じる父親」(p44)であり1)ここに「戦後日本」における「アメリカの影」を読み取ることも可能だろう。、飛雄馬が父の作り出した閉域を抜けるには、自らの左手を破壊して野球をやめる以外にはなかったのである。

 続いて、ボクシングまんがの金字塔『あしたのジョー』を見よう。主人公のジョーの永遠のライバル、力石徹は、ジョーと対決するために無理な減量をしてフェザー級からバンタム級に下りてくる。そしてジョーを破るものの、無理を押した上での激闘のため、そのまま死んでしまう。

 ここにも大塚は技法の記号性と主題の現実性との矛盾を見る。梶原一騎の設定では、そもそも力石の体格はさほど大きくなかったのだが、作画のちばてつやは、記号的な技法で分かりやすく力石の体を大きくした。その結果、ボクシングという主題に伴うリアリティの要求との衝突が生まれ、力石の無理な減量のエピソード、その悲劇的な死へとつながっていく。

 そして、力石の死後、今度はジョーは力石の想いに応えるために、体の成長にも関わらずバンタム級にとどまり続け、それがジョーの死を示唆する「真っ白に燃え尽きる」エピソードへと結びつくのである。

 これを大塚は、ジョーは「成長する身体」に否応なく直面しながら、成長しない「永遠の少年」として生きることを敢えて選択するという仕方で「アトムの命題」を生きたと見る。

 大塚によれば、飛雄馬はその「成長しない小さすぎる身体」のゆえに、父に依存しつつ大成するか、大成する夢の外に出るしかなく、ジョーは「成長する身体」を否定して「永遠の少年」たろうとしたために「燃え尽き」てしまう。

 いずれにせよ、梶原一騎のビルドゥングスロマンは、「記号」と「身体」の狭間で生まれた「アトムの命題」につまづいて挫折するという運命を背負っていたというのである。

第3講 萩尾望都

 続いて、少女まんがのいわゆる「二十四年組」(昭和二十四年 = 1949年生まれのまんが家たち)の筆頭格である萩尾望都が取り扱われる。

 本講のテーマはいわゆる少女まんがにおける〈内面の発見〉だが、技法上の前史として、60年代に現在の少女まんがに通ずるような仕方で内面を描こうとした、トキワ荘グループの石森章太郎の試みがあった。

 石森は、内面を豊かに描くために、吹き出し内のセリフのみならず、吹き出しの外にも文字を書くことで言語の位相化を行い、内面の重層性を表現する技法を編み出しつつも、それを放棄、コマ展開で内面を表現する方向に進む。これはのちにあだち充の『タッチ』などで完成される。

 また、時代背景として、60年代に女性が自らを語る言葉を獲得していったという社会的な事情がある。二十四年組が属する団塊の世代は、日本における初期のフェミニストたちも属している世代であり、彼女たちは自分について、例えば、その「恋愛や性」について語ろうとして言葉を模索していたのだ。

 大塚によれば、その彼女たちが手にした言葉が、マルクス主義を経由してのフェミニズム思想と、少女まんがとの二つだったのだという。

 さて、以上の背景を踏まえた上で、大塚は萩尾望都の『真由子の日記』を見ていく。

 そこで分かるのは、その作品が絵の水準では戦前以来の「お人形さんのような」、つまり「記号的な」絵を引き継ぎながら、主題の水準では、成長する性的な身体というテーマを抱え込むという、いかにも戦後まんが的な矛盾のもとに置かれており、このテーマとの密接な連関のもとに、少女の内面と、それを語る「言語の位相化」の技法が導入されていることである。

 大塚は、二十四年組は、このように見出された性的身体に内面をもって向き合って、「戸惑い立ち尽くした」(p79)という。女性たちにとって、女性性をどう引き受けるか、それとどう和解するかが問題だったのである。

 実際、萩尾望都は、続く『ポーの一族』では永遠に少年少女として生きる吸血鬼を描き、『11人いる!』では自ら性を選択することができる世界での性の選択の物語(大塚はキャラの名前をとって、それを「フロルの選択」と呼ぶ)を描くことで、この問題への解答を模索しつづけたのである。

第4講 吾妻ひでお

 続いて大塚が扱うのは、大塚が〈おたく〉なるものの起源にして、その不毛を生き切った作家として位置づける、吾妻ひでおである。

 吾妻ひでおは、70年代の二十四年組による少女まんがの革新が一段落した70年代後半から登場した、大友克洋ら「ニューウェーブ」の一角と目されていた。

 大塚によれば、一般にスタイリッシュな作画技法を用いた「ニューウェーブ」は、まんがの高度情報化社会へ適応形態だったのだが、その中で極めて手塚的-記号的な絵を用いた吾妻ひでおは異色の存在だった。

 その功績の一つは、『不条理日記』に見ることができる。それは内容の面で「意味や物語がまだ機能していた時代にそれを解体してみせ」(p91)、のちのナンセンス・シュールなギャグまんがの先駆となったのみならず、その続編が当時「エロ本の中でも最底辺であるメディア」(p92)に掲載されたことで、メジャー誌とマイナー誌との垣根を崩す嚆矢ともなったのだ。

 しかるに、彼の功績としてとりわけ重要なのは、吾妻が手塚的な「記号絵」を性的コミックに持ち込み、「記号的表現」と「リアルな身体」との矛盾という戦後まんがのテーマの領野を拡大し、「ロリコンまんが」を作り出したことである。

 この「ロリコンまんが」の発明、「記号絵」に「隠された性」(p96)の発見は、他のまんがやアニメにも、それを見出していくポルノグラフィックな二次創作の隆盛も生み出し、現在の「萌え」へと一直線に繋がる道を開いたのである。

 だが、大塚曰く、吾妻の偉大な点は、その「記号絵」に「性」を見いだす「おたく」的な「表現が必然的に抱え込む不毛さや不可能性をもあらかじめ生きてしまったことに」(p97-98)ある。

 大塚によれば、『不条理日記』の延長線上で、それを最大限シリアスにした作品である『夜の魚』では、リアルに描かれた「剥き出しの生身の身体」には怯み、蝉の幼虫のような女キャラとしか性交できない主人公を描くことで、「記号絵を介してしか女性の身体性と向き合えない男たちの性意識が冷徹に描写され」(p101)るのである。

 この作品は、周囲の登場キャラクターの多くが異形のものとして描かれるシュールなものだが、大塚によれば、これこそがまんがで「私小説」を描く唯一の方法であると評価できる。

 まんがで現実の私を写生しようというのは、記号的であるというまんがの特性上、困難であるし、他にそれが得意なメディアがある以上、意味がない。ただ、作者の自意識に映る歪んだ世界にまんが的な記号を通して肉薄するという形でのみ、まんがに「自意識 = 私」を登場させうると、大塚はいうのである。

第5講 岡崎京子

 大塚が80年代に編集していたロリコンまんが誌である『漫画ブリッコ』には、吾妻をはじめとするロリコンまんが家たちだけではなく、二十四年組の主題と技法を受け継ぎながら、すでに技法的にも主題的にも保守化し細分化していた少女まんがには受け入れられなかった女性たちも集っていた。

 その一人が、次に扱われる岡崎京子である。大塚曰く、彼女もまた「フロルの選択」、すなわち、女性性との対峙をテーマとするが、それを80年代という高度情報化社会の中で遂行するのである。

 高度情報化社会・消費社会の始まりとしての80年代とは、大塚曰く、記号的・ブランド的な商品が氾濫し、「虚構化していく都市空間の中で、ブランドその他の記号を身に纏えば自分の身体からさえも自由になれる気がした」(p114)時代であり、女性性を引き受ける「フロルの選択」をどこまでも先延ばしできるユートピアとも思えた。

 もちろん、それでは済まないから表現があるわけで、岡崎の主題はその虚構化・記号化の向こうに、やはり存在している「死」であり、具体例はこの要約では省くが、その作品では、高度情報化社会の中での女性の一見すると軽やかな生き方が描かれながら、そこでの「死」との向き合い、「虚構化」による夢のような時間の終わりとその先が、執拗にテーマ化されていく。

 本講義の最後で、大塚は、これまでの議論を総括して以下のように論じる。戦後まんがは「記号としての身体と生身の身体との狭間に主題を発生させてきた」(p130)。岡崎は、80年代という私たちの生そのものの「記号化」していく時代のなかで、その主題、「アトムの命題」にもっとも誠実に向かいあった作家である。

 近年では、このような社会そのものの虚構化のなかで、それに対抗するためにナショナルな感覚を再構築しようという議論が出てきているが、大塚からすれば、そこにいきなり飛び込むのではなく、「記号的な身体」と「成熟」との間の葛藤としての「アトムの命題」に様々な答えを模索してきた戦後まんがの歩みを、私たちは「教養」として、まず引き受け直すべきなのである。

第6講 宮崎駿と高畑勲

 ここからササキバラのパートに移る。最初に扱われるのは、スタジオジブリのツートップとして有名な宮崎駿と高畑勲である。

 まずササキバラは戦後のアニメ史を簡単に振り返っている。現在に直接つながるようなアニメの歴史の発端は、1956年の東映動画(現・東映アニメーション)の設立にある。

 東映動画は『白蛇伝』(58年)を端緒として、長編「漫画映画(=アニメ)」を作成していく。高畑も宮崎もここでアニメのキャリアをスタートさせたのである。

 さて、宮崎が東映に入社した63年はテレビアニメ元年でもある。初期東映作品にスタッフとして参加した手塚治虫が虫プロを設立し、毎週30分という現在にまで続く方式で『鉄腕アトム』をアニメ化したからだ。

 虫プロは低予算かつ毎週30分放送という厳しい条件を、アニメの特性である「動き」を大切にする東映のアプローチとは異なる、とにかく出来るだけ手を抜いて形にするというアプローチで切り抜けていった。

 アニメに最初の転機が訪れるのは70年代だ。まず、70年代初頭に東映で労働争議があり、高畑や宮崎をはじめ優秀なスタッフが東映を離れる。

 そして、もう一つ転機として大きいのが、63年に始まった『鉄腕アトム』を見て育った世代が思春期にさしかかっていたことと対応して、そのような思春期のファンたちに刺さるような作品が現れたことだ―74年に放送開始の『宇宙戦艦ヤマト』である。

 テレビ版を再編集した77年の劇場版では、行列ができるほどのブームが起き、ここからアニメ雑誌の刊行からアニメグッズショップの出現まで、現代のおたく産業に直接つながる流れが生まれてきた。

 ここで宮崎と高畑に戻ると、ササキバラは、このようなアニメの対象年齢の上昇を準備したものとして、高畑・宮崎コンビの最初の作品と見なしうる『太陽の王子ホルス』(68年)を位置付ける。

 本作は、当時の政治運動、そして東映でも行われていた労働争議の空気を色濃く反映した作品で、子供向けという枠には収まらないシリアスさを持ち、それを表現しきるための技法の実験がさまざまに行われていたのだ。

 このコンビの二作目は東映からの退社後の72年に制作された『パンダコパンダ』だ。この作品の達成を、ササキバラは「日常を描く」(p143)、特にドラマチックではない「普通のことを普通に描けるようにした」(p142)という、アニメの文法の刷新に求めている。

 その後、宮崎は、高畑とのコンビで『アルプスの少女ハイジ』(74年)と『母をたずねて三千里』(76年)を作り上げた後、初めて監督を務めた78年からの『未来少年コナン』や、こちらも監督した79年の『ルパン三世~カリオストロの城~』で人気を獲得し、おたくが好む三大要素「美少女」「メカ」「巨大なもの」を揃えたアニメ監督として、おたくの支持を集める。

 この後、宮崎は『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』で映画監督としての地位を確立しつつ、まんが版の『ナウシカ』を94年まで12年に渡って連載し、自らの作家性を深めていく。

 その成果が、これまでの「商品」として完成された映画から、一段階の飛躍を経て「作品」にまで高められた『もののけ姫』である。『もののけ姫』は、出来合いのテーマを伝えるためのウェルメイドな物語ではなく、さまざまな矛盾を孕みながら、物語の中で考えを深め、問いを開いていくタイプの「作品」だったのだ。

 この試みは、これまでのよくできた「商品」のファンだった多くのおたくたちを戸惑わせたものの、興行的には大成功を収め、宮崎は国民作家への道を駆け上がっていく。

 他方の高畑勲は『ホルス』以来一貫して、テーマや企画意図を明確にした作品作りを続ける。その最大のテーマとは共同体と個人との関係性を巡るものであり、『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』など、高畑は『ホルス』と同様に、常に何らかのメッセージを前提とした作品を作り続けている。

 ササキバラの考えでは、この点で高畑は、物語の中で考えていくという姿勢に移った宮崎とは好対照をなしているのである。

第7講 出崎統

 前講の宮崎・高畑が東映の出身なのに対して、出崎は虫プロ出身のアニメ監督である。

 前講でも見た通り、虫プロの現場は東映よりも状況が厳しく、絵の一部しか動かさないリミテッド・アニメーションという手法、動画の削減、止め絵の多用、絵の使い回しなどの手抜きの工夫が要求されたが、この弱みを強みに逆転させることで独自の表現手法に到達したのが出崎だ。

 出崎は『エースをねらえ!』『ガンバの冒険』『ブラック・ジャック』など数多くのアニメを監督したが、その出世作はなんといっても70年に放映された『あしたのジョー』である。

 そのころの虫プロには劇画出身のまんが家が流れ込んできていて、出崎もその一人だったのだが、彼らが持つ劇画的な構図や激しいタッチの描線などと組み合わさることで、もともとは手間を節約するための止め絵の多用等の手法が、新しい表現として花開いたのである。

 その手法の基礎にあるのは、「写実」的であろうとするのではなく「印象」を描くという発想であり、何かを描写するにあたって、実際の動きを正確に表現するのではなく、複数の絵の組み合わせによって、見る側に特定の意味内容を連想・想像させる「モンタージュ」の技法である。

 例えば、りんごを描くにしても、飢えと渇きに襲われた人を描いた上で、そのりんごの絵を見せることによって、りんごはもはや単なるりんごではなく、飢えと渇きを満たしてくれる救いとして、神々しいほどの輝かしさを持つようになるわけだ。

 さて、このような技法が完成にもたらされたのが『あしたのジョー』だが、内容面でみると、出崎にとってのポイントは、そこで「ジュブナイルの物語構造」が発見されたことである。

 ジョーがボクシングに取り組むのは、喧嘩自慢だったジョーが、丹下段平や力石徹に負け、しかも、それが絶対的な力の差ではなく、ただボクシングに取り組んだ時間の差によるものでしかない—つまり、練習次第では追い抜き、追い越すことができるからである。

 確かに強い奴がいる、でも奴らは歴が長いだけだ。だから、追い越そうと頑張れる。彼らは同じ道をちょっと先に行っている「先行者」なのだ。これが、成長することを目指して努力する「ジュブナイルの物語構造」を支えている。

 本作が巧みだったのは、力石が中途で死んでしまうことで、彼がジョーにとってもはや決して追い越せないが、しかし、いつまでも追いかけ続けなければならないキャラクターへと高められた点だ。ジョーは永遠に前を向いて、力石を追いかけ続けなければならない。

 この積極的な解釈のために、出崎のアニメ版『あしたのジョー』の結末は、原作におけるジョーの「死」すら暗示する「真っ白に燃え尽きた」とは別のもの、ジョーは「あした」になれば、また別の目標へと向かっていくのではないかと思えるような前向きなものとなっている。

 その後も、出崎はこのような「ジュブナイルの物語構造」で作品を作っていくが、高度経済成長期が終わったあとでは、このような「ジュブナイル」の成長物語はだんだん成立しづらくなっている。

 ササキバラによれば、出崎はそのような時代にあって、今度は「外」にある目標ではなく「内面」にある未知に向かっていくような作品作りを模索しているという。

第8講 富野由悠季

 続いて扱われるのが『機動戦士ガンダム』シリーズで有名な富野由悠季だ。ササキバラは、富野を思春期の立場から大人の社会の矛盾を告発し続ける監督として、そして富野の作品を「アニメの思春期」として、位置づける。

 さて、79年の『ガンダム』は、70年代後半に『宇宙戦艦ヤマト』で始まったアニメブームを拡張し、80年代へと繋げた、アニメ史上で極めて重要な作品だ。

 この作品が作られるまでには、しかし、前史がある。はじまりは後の『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーでもある西崎義展のもと、富野が監督として制作した手塚治虫原作の『海のトリトン』(72年)である。

 この作品は、63年に始まった『鉄腕アトム』を幼少期に見た世代が思春期に差しかかっていたタイミングと一致したこともあり、主人公の少年トリトンが健気に戦う姿が女の子を中心に支持され、ファンクラブの結成、会報の作成、例会の開催など、現在の「キャラ萌え」につながるような、「おたく」的な「アニメのファン活動」の始まりとなった。

 内容的な面から重要なのは、これも視聴者が思春期に差しかかっていることと関連しているが、本作で主人公の「正義」が相対化されたことである。

 主人公トリトンは、ポセイドン族に滅ぼされたトリトン族の最後の生き残りで、周囲からポセイドン族討伐を期待される—それこそ周囲から立派な大人になることを期待される思春期の子どもたちのように。

 だが、最終回、ポセイドン族を女子供まで滅ぼした主人公に明かされるのは、ポセイドン族がトリトン族によって生贄とされていた人々の生き残りだったという事実である。ポセイドン族の視点から見れば、明らかにトリトン族こそが悪なのだ。

 「この時、テレビアニメの主人公の「正義」の根拠が、初めて揺らいだ」(p198)。

 この『海のトリトン』の成功後、富野の仕事は「巨大ロボット」ものに移る。子供にロボットの玩具を売るための宣伝という側面の強い巨大ロボットは、スポンサーからさまざまな約束事が課されるものの、その約束さえ守っておけば、あとは自由ということもできる。

 実際、富野は77年の『無敵超人ザンボット3』で、子供むけアニメのお約束を過激に破壊していく。ロボットが戦えば街が破壊されて人が死に、住居を失った人々は難民となる。

 友人もガールフレンドも戦闘の巻き添えで家族を失い、主人公を非難して去っていく。挙げ句の果てには、ガールフレンドが敵に捕まり、自爆装置付きの人間爆弾として戦場に動員され、主人公の前で爆死する。

 メインキャラクターのほとんどが戦死した最終回、主人公に知らされるのは、敵の正体はコンピュータによる自動防衛システムであって、地球に邪悪な思念を感知したために攻めてきただけだという事実である。このように戦争を繰り返す邪悪な人類は滅ぶべきではないのかというわけだ。

 この作品は、その衝撃の内容にも関わらず、商業的にまずまずの成功を収め、富野は引き続き巨大ロボットアニメを作り続けることになる。

 その「リアル」路線が一つの頂点に達したのが、79年の『機動戦士ガンダム』だ。

 最近はしばしば、子どもの世界観で作られる巨大ロボットものを「スーパーロボット」、思春期以降の人間の世界観で作られるものを「リアルロボット」と区別するようになっているが、その「リアルロボット」ものの嚆矢となったのがガンダムだ。

 ガンダムは最初こそ視聴率も低調で、おもちゃの売り上げも芳しくなく、予定より二ヶ月早く打ち切りとなってしまったものの、より対象年齢を高めたプラモデルがバンダイから発売されると、これが爆発的な売り上げを記録し、「思春期のアニメファン」向けの企画が続々誕生するきっかけとなったのである。

 ただ、ガンダムの内容面に関していうと、これまでの「ダメなもの、嫌なもの、愚かなもの」(p212)の徹底した描写、つまり、社会や自己のさまざまな矛盾の単なる描写を超えて、物語の後半でそれを解決するとされる人類の進化した姿として「ニュータイプ」を導入した点には、ササキバラによれば、問題がないわけではない。

 まず、「進化」という生物学的次元で、社会や自己の矛盾という倫理的な問題を解決するのは筋違いである。進化は自然淘汰の結果として、倫理的な「良さ」とは何の関係もないからだ。もし、人間が必ず「良い」方向に進化するとするなら、それはもはやダーウィン以降の進化論ではなく、神による創造説となってしまう。

 そして、この行き詰まりは翌年80年からはじまった『伝説巨神イデオン』では、より明白である。そこでは人類は全て死に絶え新たな良き生命体へと生まれ変わるという結末が描かれるが、ここには具体的な希望がなく、「嫌なものに対して「みんな壊れちゃえ」と思う子供の破壊衝動」(p215)しかないからだ。

 ここには、社会や自己の矛盾にこれから立ち向かっていくという希望の姿勢で終わる、初期作品とは違った危うさがあるが、その危うさも含めて永遠の思春期作家としての富野の魅力なのだと、ササキバラはまとめている。

第9講 ガイナックス

 次に扱われるのは、これまでのような個人ではなく、『新世紀エヴァンゲリオン』で有名なガイナックスという一つの企業である。

 ガイナックスの新しさは、「作り手」自身が「おたく」として、もともとは「受け手」であり、そのようなアマチュア的な「受け手」の立場から、プロの「作り手」の側へ越境していくことで、プロとアマとの境界を相対化し、また、「おたく」による「おたく」のための作品作りを創始した点にある。

 ササキバラは、この点を論じるために、二つの前置きをしている。

 一つは、ガイナックスが活動を始めた当時は「おたく」第一世代が就職の時期を迎え、「おたく」卒業の時期だったという点である。これまでの講義で触れてきたように、63年に初のテレビアニメ『鉄腕アトム』が始まり、72年に『海のトリトン』、74年に『宇宙戦艦ヤマト』、79年に『機動戦士ガンダム』が放映された。

 典型的な初期の「おたく」は、60年ごろに生まれ、幼少期からアニメを見て育ち、思春期を迎えた70年代には上記の作品群に入れ込んで「アニメファン」となっていった。

 しかし、当時、アニメは所詮は子ども向けのものであり、大人になってもアニメに入れ込んでいるのは恥ずかしいことだったし、そうでなくとも就職してしまえば、忙しさのために自然とアニメは「卒業」してしまうものだった。

 後のガイナックスが活動を始めた80年代初頭は、60年生まれが20代になって社会に出ていく「卒業」の時期だったのであり、だからこそ、ガイナックスが開いた、ファンを卒業するのではなく、それを強みにして受け手から作り手へと越境していくという道は、やはり一つの衝撃だったのだ。

 もう一つの前置きはSFについてのものである。それはガイナックスのメンバーが活動を開始したのが1981年の日本SF大会でのオープニング動画の公開だったからであって、その背景を理解するためである。

 アニメファンが活動を開始したのは、1970年代、先に見た通り『海のトリトン』をきっかけとしてだったが、それにはるかに先行していたのがSFであり、50年代後半から『宇宙塵』(57年)という同人誌や『S-Fマガジン』(59年)という商業誌が発刊され、62年には初の日本SF大会が開催されるなど、SFは「おたく」的なものの先駆けとなっていた。

 SFは、60年代から70年代という科学技術の進歩と世の中の進歩が直結していた時代に、科学を武器にして人々の価値観を揺さぶり刷新し、熱心なファンを集めていたものの、社会的な地位は高くなく、その置かれた状況という点でも「おたく」的なものの起源の一つである。

 さて、70年代になると思春期を迎えたアニメファンもSFの世界に参入してきて、アニメファンとSFファンの相互貫入が進んでいく。その流れを加速させた一つの画期が70年代末の映画『スター・ウォーズ』の公開である。

 この映画の人気が一般人をも巻き込んだ広がりを見せ、「SFの浸透と拡散」が話題になった。その中で、SFファンの世界にアニメファンやまんがファンが大量流入してきたのだ。

 こうして、81年の日本SF大会での後のガイナックスメンバーの登場の舞台が整う。

 この大会は関西の大学SF研の連盟組織が主催し、運営メンバーには、のちにガイナックスを創設し、オタキングとしても有名になる岡田斗司夫が、オープニングアニメの作成メンバーには、一人だけあげるなら、庵野秀明がいた。

 そのオープニングアニメは、制作メンバーは全員学生だったにも関わらず、プロ顔負けのクオリティで美少女とメカが動きまくり、また制作側自身が「ファン」であったことから可能になったことだが、「ファン」内部で内輪受けするパロディネタが満載で、大反響を呼んだのである。

 ササキバラによればこれをきっかけに、アマチュアによるアニメは、美少女とメカが登場し、商業作品のパロディが乱舞する、今でいう「おたく」向けの作品が一気に主流になったという。

 さて、岡田らは、その後、ガイナックスを設立し、本格的な商業アニメーションの作成に着手、アマチュアからプロへの越境、その境界の相対化を成し遂げていく。

 その第一作が劇場アニメ『オネアミスの翼〜王立宇宙軍〜』である。ストーリーは、人生の目標が見つけられない宇宙軍所属の若者が、初の有人宇宙ロケットの打ち上げに奮闘し、最後には宇宙に飛び立つというもので、ある意味では、アニメを作っている自分たちの自画像ともいえる作品だ。

 ガイナックスの強みは、自身が「おたく」であることから可能になる「おたく」のための作品作りであり、それは美少女・メカ・SFというおたくの好む要素を詰め込んだ『トップをねらえ!』や、まさにおたくの自画像をパロディ的に描く『1982 おたくのビデオ』で遺憾無く発揮されていく。

 ササキバラの見るところ、おそらくは95年の『新世紀エヴァンゲリオン』も、そのような「おたく受けする要素満載」のアニメとなるはずだったのだろう。

 しかし、監督の庵野秀明は、このような「おたく」が「おたく」のために作品を作るという閉鎖性に嫌気がさしていたのか、その閉鎖性を徹底的に描き出すことで、それを突破するような作品作りを『エヴァ』で試みたようだ。

 その試みは、最終的には、その閉鎖領域を飛び出ることの困難さを結論として示すものだったが、その徹底的な走り抜け方は、やはり極めて高い評価に値するだろう。

補講 石ノ森章太郎

 最後に補講として扱われるのが石ノ森章太郎である。これが補講なのは、石ノ森がメディアミックスの先駆者として扱われ、まんがにもアニメにも割り振られ得ない存在だからだ。

 実際、石ノ森はもともとまんが家だが、現在、もっとも有名なのは特撮番組『仮面ライダー』の原作者としてだろう。

 さて、なぜ石ノ森はメディアミックスの先駆者となることができたのだろうか。ここでもササキバラは石ノ森の辿った軌跡を振り返ることから始めている。

 石ノ森は、いわゆるトキワ荘グループの一員で、手塚治虫の周辺からキャリアを始めたまんが家だったが、その中で石ノ森を特徴づけていたのは、その「前衛性」であり、石ノ森はまんが表現の可能性を押し広げるべく、さまざまな技法上の挑戦を続けていた。

 「まんが家など、いつやめてもよい」との思いで「好きかって」(p246)に書いていた芸術志向の石ノ森は60年代前半まではヒット作に恵まれなかったが、60年代後半には結婚というきっかけもあったのか、プロ意識を持って芸術性とエンターテイメント性を両立させた作品を世に問うていくようになる。

 そうして生まれたヒット作が『サイボーグ009』だ。

 その後、70年代になると『仮面ライダー』などでメディアミックスの原作者として活躍していく石ノ森だが、その成功の理由は、石ノ森がメイン・キャラクターの内部にドラマの原動力となる葛藤を置く「陰のある超人ヒーローもの」(p247)を得意としていたことに求められる。

 メディアミックスでは、二つ以上の異なるメディアで同時に物語が展開される。その内容はまったく同じであってはならないが(それでは複数メディアでやる意味がない)、まったく違っていてもいけない(それでは作品の同一性が失われてしまう)。

 この条件にもっともよく適したのが、メイン・キャラクターに物語を生み出す葛藤を内在させるという手法だったのだ。それを採用すれば、さまざまな物語のバリエーションを、同じキャラクターによる同じ作品として展開することが可能になるからだ。ササキバラ曰く、弟子筋の永井豪も同様の手法でメディアミックスにおいて活躍したという。

 しかし、これは物語としては危険な手法でもある。というのも、ヒーローものを安定して続ける場合には、ヒーローに物語を持たせず、敵や周囲の人々に物語を持たせて、ヒーローはただそれを解決する役にしておくのが一番だからだ。

 『ウルトラマン』などはその好例だが、『仮面ライダー』や『サイボーグ009』といった石ノ森作品はヒーローに物語を駆動する問題を内在させることで、ヒーローが自らの葛藤を追求していくことによって、結果として破滅へとひた走っていくような物語を生み出すことが多かったのである。

 ところで、石ノ森作品を主題面で見ると、『仮面ライダー』に代表されるように、典型的なヒーローの葛藤は望まずになされた自己に対する改造を取り消したいということであり、そのために自らを改造した組織に戦いを挑むことである。

 これはある仕方では、理由もなく人間として生まれてしまった私たち自身の状況の写し絵でもある。私たちを作った存在といえば「神」だろう。だからこそ、『サイボーグ009』は最後には神々と戦わなければならなかったのだ。

 ここには、私たちは理由もないまま人間として生きるという状況を与えられてしまっているという、当時流行していた「実存主義」の思想と共鳴するような側面を見出すことができる。そうまとめてササキバラは稿を閉じている。

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「おたく文化論」研究

References   [ + ]

1. ここに「戦後日本」における「アメリカの影」を読み取ることも可能だろう。
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