ササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史 萌えとキャラクター』要約

 この本は2004年に発刊されているから、ちょうど「萌え」というブームが一段落したころに出版されたと言っていいだろう。

 本書は「美少女」キャラなるものが、これほど巷に氾濫し、それに「萌え」ている人が大勢いるということの背景を知り、またそれについて考えるという上では必読の基礎文献であるように思う。以下で内容を簡潔に要約しておこう。

内容要約

 本書は「美少女キャラ」と「萌え」の隆盛の歴史的叙述を行うに際して三つの時期区分をもうけていると考えることができる。

 すなわち、「美少女キャラ・萌え」以前である1970年代まで、「美少女キャラ・萌え」が勃興する70年代末から80年代、「美少女キャラ・萌え」が様々な仕方でさらに展開していく90年代以降である。

1970年代まで

 そもそも、現在のアニメ・まんが等に登場するような「キャラクター」と親しみつつ育った最初の世代は、「おたく」第一世代とも呼ばれる1960年前後生まれの人々である。

 1963年に初の連続テレビアニメとして「鉄腕アトム」が放映された。1960年前後生まれの世代とは、幼少期からアニメが身近にあった最初の世代なのだ。

 さて、この世代が思春期に達したとき、「萌え」、つまり、異性のキャラクターへの強い愛着は生じたのだろうか。著者の答えは「生じた、ただし、女の子たちにおいて」というものである。

 1972年に放送が開始されたテレビアニメ『海のトリトン』の健気な少年主人公トリトンが、女の子たちのなかでアイドル的な人気を獲得し、ファンクラブの設立、例会の開催、同人誌の発行等の「おたく的」な活動が始まったのだ。

 では、男の子たちは何をしていたのか。本書の叙述を敷衍していえば、「男の子たちはまだ他に熱中することが(かろうじて)あったのだ」と言えるかもしれない。

 というのも、本書において1970年代は、男の子たちが「価値」や「根拠」、つまり、「○○○のためなら死ねる」(p70)の「○○○」に入れるものを失っていき、それが最終的に「女の子」だけになってしまうという転換期に当たるとされているからである。

 すなわち、高度経済成長期の60年代には『巨人の星』や『あしたのジョー』の主人公たちが、「○○○」に「巨人」や「あした」を入れて、それに向かって突き進んでいた。現実社会においては、これらはおそらくは経済的な豊かさへの努力や、あるいは全共闘など左翼的な政治運動へのコミットメントに対応していたのだろう。

 しかし、70年代に入ると、『巨人の星』も『あしたのジョー』も、主人公の挫折という仕方で終わりを迎える。そして、両作の原作者でもある梶原一騎が70年代前半に手がけたのが『愛と誠』である。

 本作の主人公は、当時「内ゲバ」と呼ばれる不毛な内輪揉めという隘路におちいった政治運動の挫折に対応しているのだろうか、一切の「○○○」に入れるべきものを失い、暴力と策謀で学園を支配しようとするニヒリストである。それと対比的に描かれるのは、ヒロインに向かって「きみのためなら死ねる」と告白し、それを一途に実践する男だ。

 政治における思想的な挫折や、経済における高度成長の終わりのなかで、もはや最後に残った価値は「愛」しかないかのようなのだ。

 同じ70年代前半の松本零士による『男おいどん』も、この観点から読むことができる。九州男児の冴えない浪人生である主人公は、「男らしさ」にこだわっているが、極めて些細なことにおいてしか、それを証明することはできないし、それにすら失敗することの方が多い。

 そんな主人公の冴えない生活を彩るのは、ときたま現れ、ひとときの希望を与える女性たちだけである。

どんなみすぼらしい男でも、誰か女性と恋仲になり、結婚さえできれば、一人前の男として認められる―そういう希望が、そこに漠然と前提されています。それが唯一の「男の証明」になっています。(p75)

 このような流れの中で、70年代後半のまんがにおいては重点が徐々にヒロインに移っていき、80年代初頭のラブコメブームが準備されることになるという。

 80年代の叙述に移る前に、この頃に存在した、ラブコメとは似て非なるものと位置付けられる「エッチまんが」「ハレンチまんが」について見ておこう。

 これは本書の図式からすれば、「女性」とは別のところに「男の証明」「価値」「根拠」を持っている男性の視点からして、「女性」を単に「スケベ」な視点から対象化するまんがだと見ることができる。

 「女性」との関係に自分の「根拠」等々のたいそうなものが掛かっているわけではないため、男性は安心して「オヤジ的」に無遠慮な仕方で女性にスケベな目線を向けることができた。そこには自分が掛かった「恋愛」はなく、単にエッチな関心があるだけなのだ。

1980年代

 1980年代、「美少女」と「萌え」がシーンの中心にのし上がってくる様を叙述するのに際し、本書では吾妻ひでお・宮崎駿・高橋留美子の3人に特別な重要性が認められる。

 本書によれば、吾妻ひでおは、第一に『不条理日記』におけるディープなSFパロディネタを織り交ぜたシュールギャグで活字SFファンをも獲得し、アニメ・まんがとSFという、それまでは相互にファン層がかなり異なるものだった二つの領域を架橋するような役割を担った。

 アニメ・まんが・特撮・SFなどの一群の文化を好む「おたく」の形成を促進したのである。

 その上で、吾妻とその周辺が巻き起こしたのが「ロリコンまんが」ブーム、すなわち、いかにもまんが・アニメ的な絵柄で性的なコミックを描くことだった。この試みには性的でないものに性を敢えて見出していくという批評的でギャグ的な要素、一見性的でないアニメ絵に隠された性を敢えて描くというパロディ的な要素も強かったのだが、これが意想外に大ヒットし、「おたく」層に急速に受け入れられていく。

 まんが・アニメ的なキャラクターに性的な視線を向けるという「萌え」的な作法に直接つながる態度が生まれたわけだ。

 これがまんが界の周辺、マイナーまんが領域で生じたことだとするなら、メジャーまんが領域では、高橋留美子による、SF・アニメ・特撮世代の感覚がふんだんに盛り込まれた『うる星やつら』が78年に始まり、美少女を中心とするラブコメブームの先駆けとなる。

 そして、アニメの領域では79年に宮崎駿の『ルパン三世〜カリオストロの城』が公開され、ヒロインのクラリスは、『うる星』のラムとならんで、80年代前半を代表する美少女キャラクターとなった。

 ササキバラは、このカリオストロのクラリスに即することで「美少女の構造」と彼が呼ぶものを説明している。

 カリオストロのヒロイン、お姫様であるクラリスは、ルパン本編のヒロイン役である峰不二子とは対照的なキャラクターである。力強くかっこいい女性である峰不二子は70年代を代表するアニメキャラクターであり、そのお色気たっぷりなさまは、オヤジ的な「スケベ」とも相性がいい。

 それに対して、華奢でか弱いクラリスは、そのようなお色気的視線を無造作に向けようものなら泣き出してしまいそうな繊細さを感じさせる。

 さて、このお姫様たるクラリスと相対して—ここにササキバラは宮崎に典型的な「お姫様を救う王子様」というストーリー構造の影響を観取しているが—単なる泥棒であるはずのルパンはクラリスを彼女が置かれている苦境から救い出そうとする。彼はなぜか王子様の役割を引き受けてしまうのだ。

 物語中、普段のスケベで不真面目なルパンは半ば封印され、ルパンはクラリスを救う王子様の役割に徹していく。ルパンにクラリスを助ける理由はないから、私たちはそこに恋愛感情を想定してしまうことになる。

 さて、ルパンがクラリスに恋愛感情を抱くとして、ルパンはクラリスに愛される根拠はない。というのも、ルパンはお姫様の相手たるべき「王子様」ではないからである。

 しかし、ルパンが身を挺してクラリスを助けたからだろうか、最終シーンで明らかにクラリスはルパンに好意を示す。ここが本編のクライマックスだが、ルパンはクラリスを抱きしめない。

 というのも、自分のような暗い世界の存在と関わることはクラリスにとっては良くないから、まさしく自分には愛される「根拠」がないからである。

 ここからササキバラは以下のように議論する。前節で見たように、70年代を通して、男性は「男の証明」、自らを支える「価値」や「根拠」を失ってきた。そこで唯一の価値ないし根拠として残ったのは「女性」だった。

 しかるに、「男の証明」が「女性」に先立っては存在しないということは、そもそも、愛される「根拠」もないことを意味する。自分が女性に向ける好意は、かくして無根拠であり、相手を害する暴力的なものなのだ。

 それこそ、オヤジが女性に向ける無遠慮なスケベの視線が、自らの無根拠性を自覚することで、ある種の暴力として見えてくるように。

 そういうわけで、王子様であるという愛される根拠を持たないルパンは、クラリスの好意に自らの価値を委ねることでクラリスを絶対化しつつ、その絶対性を自らの暴力性によって侵してしまわないために、自らの無根拠を自覚して身を引く。

 こうして、「美少女」は決して侵され得ない絶対性を持つことになる。ここに原初的な「美少女の構造」があるという。

 さて、80年代の各メディア領域における、「美少女」の展開を見ていこう。

 まんが領域では、ラブコメブームとパロディ的なギャグまんがが二本柱となる。

 すなわち、一方のラブコメでは、かつての価値の空白を美少女と恋愛が埋めていく。「女の子が望んだから」(p90)甲子園を目指す『タッチ』に、その典型を見ることができる。

 他方のパロディ的ギャグまんがの基本文法は、あらゆる「価値」が根拠を失っていく中で、その無根拠さを執拗に示し続けることである。

 何らかの「価値」が現れようとするとき、パロディによって、それが「引用」であったり「反復」であったりすることを示し、その「虚構性」を明らかにすること。ここには無根拠を自覚しつづけようというギャグまんがの倫理性がある。

 80年代の美少女とパロディは、どちらも男性が根拠を失ったことへの、相互に密接に絡み合った二つの応答なのである。

 他方のアニメ領域では、のちのガイナックスメンバーによる「DAICON Ⅲ オープニング・アニメ」をきっかけに、「メカと美少女」というおたく的なモチーフが前景化していく。

 ササキバラによれば、『超時空要塞マクロス』などは、「美少女の歌が戦争を終わらせる」というギャグのような話を中途半端にシリアスにやってしまい、もはや男性が「美少女」から距離を取ることができないことを痛々しい仕方で示してしまっている。

 また、80年代のアニメにおいて、男性が根拠を失い、女性が中心となっていくことを、女性キャラの活躍を通して素直に表現していたのが、宮崎駿の映画であり1)もちろん、90年代の『紅の豚』も忘れてはいけないが。、逆に根拠を失った男性たちを執拗に描いたのが富野由悠季であると、ササキバラは位置付けている。

 さて、先に「美少女の構造」を論じたが、それは「原初的」だと述べておいた。私がこのように言ったのは、ササキバラの論じるところ、この「美少女の構造」、そこで自覚された男性の無根拠性や暴力性は、すぐに隠蔽されていくことになったからである。

 すなわち、70年代の「エッチまんが」「ハレンチまんが」的なお色気キャラクターから、80年代初頭ごろの美少女キャラクターへの移行において、確かにスケベオヤジ的な視点の無根拠な暴力性が自覚され、性的な要素を強調する「肉体」から、キャラクターの内面を表現する「顔」への重点変化が生じる。

 だが、この「顔」への焦点化は、続いて、美少女的な「顔」と性的な要素を強調する「肉体」とのキメラ的結合体に取ってかわられる。

 というのも、男性たちは「恋愛」の成就によって、つまり、美少女の「顔」に好意が表明されることによって、自分たちの性的な欲望に十全な根拠が回復されることを望んだからである。

 80年代後半以降のラブコメにせよ、エロまんがにせよ、基本的には美少女キャラクターの内面を理解することを通じて、美少女キャラクターに愛され、そうすることで再び欲望に「根拠」が与えられるという構図を前提としている。

 『カリオストロの城』のルパンの、無根拠性のために身を引く身振りは、それこそ「消滅する媒介者」のような形象だったのかもしれない。

1990年代以降

 本書では、1990年代以降を女性による表現とパソコンの時代と位置付けている。

 一方では、美少女的なるものは、もはや男性の作り手によってのみならず、女性によっても作られるようになっている。女性が「美少女的なもの」の構造を見透かし、それを創作に利用するようになっているのだ。「美少女戦士」セーラームーンやCLAMPの作品にその端緒が見られる。

 続いて、パソコンの時代において重要なのは「美少女ゲーム」である。「美少女ゲーム」はプレイヤーが選択肢を選ぶことで物語が分岐するというインタラクティブ性に特徴がある。

 それはある意味ではプレイヤーが物語、その中にいるキャラクターに対して「責任」を負うことを意味する。それは私がキャラクターを傷つけてしまうかもしれないということを意味するわけで(「美少女の構造」)、そこで私は慎重になり、キャラクターの内面を斟酌せざるを得ない。

 このキャラクターへの責任ある関係を通じて、私はリアリティを経験する。「美少女ゲーム」は責任という娯楽なのだと、ササキバラはいう。

「美少女的なるもの」の隘路

 90年代以降で最後に重要なのはインターネットという「視線の欲望」のパラダイスの出現である。これとの関連で美少女的なるもの、というより、それを愛好する男性(=自らの無根拠性を自覚した男性)の隘路について、ササキバラに従いつつ、述べておこう。

 そもそも、女性に対して男性は視線を向ける立場にある。70年代までの、自身の持つ「根拠」に安住したオヤジが女性の上に這いずり回す無遠慮な「スケベ」の視線。

 その暴力性を自覚した80年代のラブコメにおいても、最終的には男性は女性の内面を「分かってあげる」という仕方で、自分の見方を女性に押し付けていることには変わりはない。それも暴力性を持っているのだ。

 このことはササキバラ曰く、80年代の後半に少女まんがにおいて「内面的な表現が大きく後退する」(p180)という事態によって自覚されるようになったという。「分かってあげよう」にも、内面が提示されないのだ。そうすると相手を理解しようにも、それは押し付け的な暴力でありうる。ここに男性の「二度目の撤退」が生じるという。

 こうして男性的な欲望とは、女性を対象化して眺める欲望であり、同時にその暴力性が自覚された際には、「屈折」し、撤退を繰り返すような欲望である。

 さて、80年代以降は、おそらく、もはや男性が女性を一方的に眼差すのではない、女性も男性を眼差しかえすような時代である。ササキバラは述べていないけれども、おそらく、そこには女性の社会経済的な自立といった、社会経済的な要因もあるのだろう。

 このとき、自らの欲望の無根拠性・暴力性に気づいて屈折してしまっている男性は、この眼差し返しに応ずることができない。自分は根拠のない存在だからと自嘲して退却する以外ないのである。

 こうして、決して眼差し返さない存在としてのキャラクターがますます求められることになる。実際、美少女ゲームは、内面を抱えたキャラクターを理解することによる「恋愛」と、その根拠によって免罪される「性的」な視線とが同居する空間となっている。

 それは自らの無根拠性を自覚して屈折し、眼差し返してくる、つまり、自らの無根拠を暴いてくる現実から撤退せざるを得なかった人々にとって、安心して「眼差し」に徹することを可能にしてくれるパラダイスなのである。

 このことの問題性が、まさに私たちを純粋な視線存在に還元してくれるインターネットの普及によって、ますます拡大しているのだ。

 ササキバラが言ってはいないが、おそらく想定していることを付け加えるなら、こうして私たちが視線であることの全能を存分に経験しうるようになったことで、私たちが眼差される際の無力との落差はいやましに大きくなり、そのことが私たちの視線存在たることへの没入をさらに加速させるのである。

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「おたく文化論」研究

References   [ + ]

1. もちろん、90年代の『紅の豚』も忘れてはいけないが。
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