『半分の月がのぼる空』(旧版:第1巻)はやはりある種の「過剰」なテーマ性を抱えているように思う。端的に言うと、この本のテーマは実は「日本」だという風に読める。この点を示すために、議論を展開してみよう。以下、「」は原則として引用である。
まず舞台設定を見てみよう。かつて「今の天皇さんの祖先を祭っている由緒正しいお宮」たる伊勢神宮を中心に栄えていたが、今や寂れゆく「ゆっくり、ゆっくり、死んでいく」町である、三重県伊勢市が物語の舞台となっている。
そして、ヒロインの里香は「日本人形」のような、心臓の病に冒され、極めて成功率の低い手術を受けなければ、ただ「死んでいく」しかない少女である。それに対する主人公は、廃れゆく町を捨て、「東京か名古屋の学校」に進学して、広い「世界というヤツ」を見たいと願望している。
つまり、舞台である伊勢も里香も、日本を象徴するものとして理解できるし、それはどちらも「死んでいく」ものとして描かれている。そして主人公はそれらから離れようとしている。「こんな小さな町しか知らないまま死ぬ」のは「男として正しくない」。
この主人公の態度は、彼の父と祖父に対する態度とも並行している。父は「命がけで好きな女の子を大事にしろ」というが、主人公は、そういう父自身が妻、つまり、主人公にとっての母を大事にしていないことを知っているので、それに対して「バカだ」「説得力ゼロだ」としか思わない。
また祖父(世代)に対しても、太平洋戦争時に砲台があったという「砲台山」を眺めながら、主人公は「あんな大きな国」(アメリカ)と戦争するなんて、「意地やプライドをかけて必死に戦ったのかもしれない」が、やはり「下らない」と一蹴する。「僕なら真っ先に逃げだすだろう」。
これが物語の出発点における諸々の配置である。第一巻における物語の展開は、主人公がこの故郷を離れ逃げていく傾向を捨てて、里香を選択し、それと平行して父と祖父についての評価を反転させることからなっている。
具体的には、多田という入院患者の「じいさん」、つまり祖父の世代が死に、その遺産として受け取った「エロ本」を読んでいるうちに、今まで「そういう力とその作用から逃げてきた」といわれる「不思議な力」に主人公は貫かれる。そして、どういうわけか決意する。「砲台山」に登ることを。
実は、里香の父も里香と同じ病気にかかっており、砲台山に登ることで病と闘う決意をし、難しい手術を受けることにしていたのだ。結果は失敗だった。そして里香もまた、手術を受ける覚悟をするために、砲台山に登ることを望む。主人公はそこに一緒に登ることを決心する。
さて、砲台山に登ることで、それと戦う決心がつく病とは、もはや明らかだろうが、アメリカのことであるとしか考えられない。砲台山は、太平洋戦争時の砲台があった場所なのだから。里香の父は砲台山に登って、病に破れて死ぬ、つまり敗戦する。そしてまた里香が、父の身振りを反復して病に挑むということになる。
かくしてこの話を私の視点からまとめればこうなる。「里香 = 日本」は死にかけている。「主人公 = 私たち」はそれを離れつつある。というか、里香が日本そのものだとすれば、それは私たちがそれを離れようとすることによって死ぬのだろう。
しかし、主人公は祖父世代の遺品が生み出す「不思議な力」に貫かれることで決心する1)もちろん、その遺品がエロ本であることには注意を払うべきだ。。里香とともに戦うことを。何と。病気と、あるいはアメリカと。
かくして主人公は「世界を見たい」などという内なるグローバリズム、すなわちアメリカ性(?)を克服し、祖父と父の精神を肯定し、引き受け、里香とともに戦うことを決意する。「今の僕」には「父親の言葉は正しかった」と分かる。これが『半分の月がのぼる空』の内容(の裏面)ではないだろうか。
それは、少女を選ぶことと日本を選ぶことが重なり合っているような、そういう不思議な位相の物語なのである。私は、今のところ続刊を読んでいないため、この問題意識がいかに展開されているかはわからないし、それについて何らかの価値評価を行うつもりも、したがって、さしあたりないのだが(2010年に初稿を執筆)
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References
1. | ↑ | もちろん、その遺品がエロ本であることには注意を払うべきだ。 |