ヤンデレの起源—彼女たちはなぜ「病む」のか?

1、ヤンデレの「起源」への問い 

 ヤンデレについて、その起源について、その「病み」のもっとも本質的な「病因」について、論じてみたい。まずヤンデレの大体の定義について、いまとなってはいささか時代がかった参照先かもしれないが、はてなキーワードを参照してみよう(本稿の初稿は2008年に書かれている…)。

普段は優等生的なキャラクターに見えるが、主人公に惚れており(デレ)、ストーリーの進行に従って明らかになる何らかの事情により、精神的に病ん(ヤン)でしまう女性、もしくはその状態を指す。具体的には、主人公や対抗するヒロインに対して物理的行動を起こすなどが挙げられる。キャラクターの持つ背景設定が感情的な行動として強く表現され、そこが魅力となる。はてなキーワード:ヤンデレ

 これはヤンデレの定義として当たり障りなく出来ている。ただ、先に述べた通り、私の関心はヤンデレ一般ではなく、ヤンデレという概念が発生した場所、その「起源」にある。そしてそれに密接にかかわると思われるヤンデレキャラたちを、狭義のヤンデレと呼びたい。狭義のヤンデレがどういうものであるかを明らかにするのが、本稿の課題である。

2、「概念」の生まれた場所への遡行 

 さて、概念が出来る、ということは一つの事件であると思う。昔から、上で引用した定義に当てはまるようなヤンデレ的キャラクターというのは存在し続けているはずだ。しかし、ある時まで、誰もそれらを一つの言葉、「ヤンデレ」でもって、包括しようとはしなかった。

 ある時、「ヤンデレ」という言葉ができる。すると、それ以前の様々なキャラクターたちがヤンデレとして再解釈され、それと同時にヤンデレの定義も固まっていく。概念の発見、概念が包含する対象の(再)発見、そしてその諸対象に即することで、概念が洗練されていく。

 おそらく、上で引用した定義もそういった過程から生み出されたものだ。 上でも述べたように、本稿の関心は(そういう過程を経て確立されたヤンデレ概念ではなく)ヤンデレという語の生まれた場所にある。

3、歴史的事実の確認 

 
 それはどんな場所だろうか。この点について、参考になる先行エントリーを参照しよう1)萌え属性「ヤンデレ」関連の歴史をまとめてみた。 これによれば、「ヤンデレ」という言葉が生まれる契機となったのは、ひぐらしのなく頃に、PC版Schooldays、つよきす、アニメ版SHUFFLE!といった作品群である。

 その中でも特に重要な契機となったのは、2005年のアニメ版SHUFFLE!で、その放送直後に、はてなキーワードの作成、filn・mixiでのコミュニティの作成などが為され、「ヤンデレ」が新しい言葉として定着し始めたという。

 その事実は分ったとして、ではその「場所」をどういう風にとらえるのか。私はそれを「美少女ゲームとアニメの交わる場所」として捉えてみたい。アニメ版SHUFFLEは言うまでもなく、その後話題になったGiftにしろ美少女ゲームのアニメ化作品であるし、Schooldaysもフルアニメーションの美少女ゲームであった。

4、アニメとゲームというメディアの差異 

 このことはおそらく偶然ではない。それには美少女ゲームとアニメというメディアの間の差異がかかわっているのだ。

 美少女ゲームは構造的に三角関係が発生しにくいようにできている、あるいは、三角関係問題を隠蔽する構造を持っている、と言える。実際、三角関係を扱った美少女ゲームはそこまで多くは見かけない(有名なのは『君が望む永遠』だろう)。あんなに大勢の女性キャラクターが出てくるのにもかかわらず、そうなのである。

 それはなぜかと言えば、美少女ゲームがマルチシナリオ、マルチエンディングを採用しているからだ。

 冒頭にある共通シナリオでは、主人公はたくさんの女性と関わる。しかし、そのうち一人を選んで(あるいはフラグを立てて)しまうと、もう他の女性はほとんど出てこない。潜在的には三角関係へと発展しかねなかった事態が、一気に主人公とヒロインとの二者間の純粋な恋愛関係へと変貌するのだ。

 では、アニメはどうか。それは当然シナリオを分岐させるという構造を持っていない。それゆえ美少女ゲームをアニメ化すれば、主人公はたくさんのヒロインと「同じ」世界で関わらなければならない。アニメには分岐がなく、一本道だからだ。

 美少女ゲームであれば別々の世界で関わるはずだった女の子たち全員と同時に関わらなければならないのである。そこに三角関係が発生するのは殆ど自明である。美少女ゲームはシナリオを分岐させることで、その問題を隠蔽した。

 一方アニメは、ハーレム化することでそれを回避する。ハーレムとは、女性たちが同じ男を好きになりながら、相互に対立していない状態を言う、その中で男は同時にすべての女性を享受する。それは当然ながら不自然なものとなり、美少女ゲーム原作のアニメはしばしば(ややネガティブな意味を込めて?)「ハーレム・アニメ」と呼ばれたのだった。

5、ヤンデレたちは、メディアの狭間に引き裂かれる

 狭義の「ヤンデレ」が登場するのは、この文脈においてである。美少女ゲームは三角関係問題を消去し、ハーレム・アニメはそれを回避し、「ヤンデレ」は―彼女たち自身が、ゲームからアニメへの移住する中で、メディアの狭間に引き裂かれて病むことによって―それを突き付ける。

 「ヤンデレ」とは、おそらく、その「ハーレム・アニメ」という歪んだ世界に唐突に突きつけられた一つの「現実」であり、一つの「事件」である。

 私にとって狭義のヤンデレとは、美少女ゲームとアニメの狭間に生まれたこの一つの「事件」のことである。 そして、「事件」のあとには、世界の風景は変わらざるを得ない。

 私はそれほど多くの美少女ゲーム原作アニメをチェックしているわけではないが、ここ最近のものを考えてみると、この事件の余波が感じ取れるように思う。例えば、「true tears」は三角関係を描いているし、「CLANNAD」は杏や椋や智代の「テニスコートの断念」を描かざるを得なかったし、キミキスに至ってはマルチヒロインならぬマルチ主人公を導入している。

 これらはどれも狭義の「ヤンデレ」によって暴露された三角関係問題の処理の諸形態なのではないかと、私には思えるのだ。

References   [ + ]

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