アニメをどう見ていくか―批評・文化・教養について

1、「批評」―T.S.エリオットの「歴史感覚」について 

 私は、最近、アニメを見るという自分にとってかなり昔からの楽しみについて、何かより一貫した正当化ないし「言い訳」が必要なのではないかと感じます。本稿ではこの点について、つまり、自分のアニメ視聴の態度についての考えをまとめてみましょう。

 さて、大げさな参照から始めましょう。イギリスの詩人にして批評家であるT.S.エリオットは「25才を超えて詩人であり続けようとするすべての人にほとんど不可欠だと言いたいもの」として「歴史感覚」を挙げています(The Sacred Wood and Major Early Essays, p27-33)。

 さて、私としては、少なくとも私にとって「25才を超えてアニメを見続けようとする」場合には、この「歴史感覚」なるものが不可欠なのではないか、そのような支え、それが与えてくれる意味感覚が必要なのではないかと言いたいのです。

 この「歴史感覚」の意味内容をもう少し見ていきましょう。これにはエリオットの続く論述を引用するのが一番です。

この歴史感覚というものは、単に過去の過去性のみならず、過去の現在性の認識をも含むものである。歴史感覚が人に強いるのは、単に自らの属する世代をなんとなく意識しつつ書くのではなく、むしろ、ホメロス以来のヨーロッパの文学の全体、そしてその中で彼の祖国の文学の全体が同時的な存在を持っており、同時的な秩序を構成していることを感じ取りつつ書くことである。この(…)歴史感覚が、ある作家を伝統的な作家とする。そしてこれは同時に、ある作家に時間の中での彼の位置、つまり、彼の現代性をもっとも痛切に意識させるものでもある。

 さて、論述は明確でしょう。エリオットの言う歴史感覚とは「ホメロス以来のヨーロッパ文学の全体」についての意識、「伝統」についての意識です。伝統はもちろん歴史的に展開してきたものであり、過去のものですが、同時に作家によって意識されるものとしては相互に連関しあいながら現在的同時的に存在しています。

 作家はこのような伝統全体についての意識を持つとき、彼は自分がそれに何を付け加えられるのか、何が新しいものたりうるかを感じ取ることができます。

 彼が伝統全体に新しいものを付け加えられるとすれば、それは第一に、彼が伝統を作り出した者たちが知りえなかった伝統を知っているからであり、第二に、同じことですが、彼が他でもない「現代」を生きているから、伝統を作り出した人々が生きていなかった「現代」を生きているからでしょう。

 新しさとは本質的に現代性であり時代性です。かくして、歴史感覚あるいは伝統意識は、ある作家を伝統を踏まえて創作する伝統的な作家にするとともに、彼を現代的で同時代的な作家ともしてくれるものなのです。

 エリオットは、この伝統感覚を創作のみならず批評にとっても不可欠なものと考えます。というのも、私たちには「詩人を褒める時、私たちは彼の作品の中で、他の誰かにもっとも似ていないような側面にこだわる傾向」があるから、つまり、作品の評価は他のものとの比較によってのみ知られる独自性の切り出しと切り離せないからです。

 とすれば、私たちはいろいろな作品を知っているべきであり、エリオットが生きているヨーロッパの詩人という文脈からすれば「ホメロス以来のヨーロッパ文学の全体」を知っているべきであって、なかんずくその「中心的な流れ」を知っていなければならないということになります。

 ところで、しばしば作品を比較し合うことに対する拒否感が表明されることがあります。それはある作品を素朴に楽しんでいるのに、他の作品と比べられて貶されることへの拒否感によるものと思われます。

 実際、ある作品を素朴に楽しめるときには比較など必要ないのかもしれませんが、それはそれとしてエリオットが考えているのは、このような意味で作品を「過去の基準によって裁く」ことなのではありません。

 そこではある作品が過去の作品「と同じくらい良いとか、あるいはより良いとか、より悪いとか」判断されるわけではありません。むしろ、「それはそれによって二つのものがお互いにお互いによって測られるような比較であり判断なのである」。つまり、お互いの差異を通じて各々の独自性がよりくっきり現れてくるような比較です。

 素朴に作品を楽しむことも大事であり、それこそが常に最初の出発点であり続けるのかもしれませんが、このような比較は、作品の楽しみをより繊細で豊かなものにしてくれるように思います。

 エリオットが別のところで述べている言葉を借りれば、このような批評的な取り組みは、「芸術作品のもとに、よりよい認識と、意識的であるがゆえにより強烈になった楽しみを伴って帰っていく」ことを可能にしてくれるように思うのです。

 さて、伝統意識を背景としての批評、過去の作品との比較による新しい作品の評価が、かように相互的なものであるとすれば、「伝統」とは不動の存在ではありません。

 過去が動くわけがないと思われるかもしれませんが、エリオットにとって「伝統」とは、私たちの意識のうちに現在的同時的に存在する作品相互のネットワークの全体性であり(実際は「過去」なるもの一般もそのようにしか存在しないのですが)、絶えず自らを組み替えていきます。

存在している秩序は新しい作品が現れる以前は完全である。しかるに、新しいものの到来のあとも存続するためには、その存在する秩序の「全体」が、いかにわずかであれ、変化しなければならない。(…)現在が過去によって方向付けられているのと同様に、過去も現在によって変化させられるべきなのである。

 新しい作品が現れる時、それとの比較を通じて、過去の作品群もまたその独自性を新たな仕方で際立たせられるわけであり、全体に対する各々の作品の位置が変容することになるわけです。

 そろそろ本来の話に戻っていくべきでしょう。ところで、なぜエリオットは25歳という年齢について語るのでしょうか。それはおそらく、そのあたりで詩人が自らの感性への素朴な沈潜とその発露に自足できなくなるという印象があるからではないでしょうか。

 確かに詩とは一面では自らのみずみずしい感性の素直な発露でしょうが、感性の激しさは25歳以降は鋭さを失っていくでしょうし、また感性の素朴な発露なら25歳までにやり尽くすこともできるのでしょう。

 それ以降、詩人が自らの詩作に価値と意味を感じることができるとすれば、それは伝統を踏まえ、それに新しいものを付け加え、それによってその中に位置を持つこと、そのことが保証してくれる意味感覚によるというわけです。

 もちろん、私が言いたいのは、これは鑑賞者にしたって同じことではないかということです。私たちも徐々に素朴に楽しむことに自足できなくなるのではないか、楽しみは、それに作品の評価を通じて意味を与えるという行為、エリオットのいう「意識的であるがゆえにより強烈になった楽しみ」によって支えられなければならないのではないか。

 それは一つの弱さなのかもしれません。しかし、それが私たちの作品の見方をより繊細で従って豊かなものとし、また新たなる楽しみを付け加えてくれるものであることは確かなのです。

 さて、こうして「25才を超えてアニメを見続けようとする」場合には「歴史感覚」が不可欠ということで私が言いたかったことも明らかになったと思います。

 素朴な楽しみに(もはや)自足し得ない私としては、相互的な参照と比較を通じた作品の意味の解明、それによって与えられる強められた楽しみと意味感覚が必要です。

 そして、参照されるべき過去の作品群が、エリオットが想定しているような「全体」へと高まり「伝統意識」や「歴史感覚」と呼ばれうるに価するものとなったとき、そのことの意義は今述べたものに止まらなくなるでしょう。

 それは一つには歴史の中での私たちの位置を教えてくれるものであり、私たちを歴史に結びつけてくれるもの、少なくとも、その結びつきの感覚を与えてくれるものです。

 ということは、同じ歴史的位置に生きる人々、つまり、同時代に生きる人々とも、私たちを改めて結びつけてくれるということです。伝統は通時的な位置づけを通じて共時的なつながりをも与えてくれるのです。

 さらにもう一つには、それは「全体」として、知の断片化を防ぎ、その漸次的な発展、その内的連関が豊かになっていくことを保証してくれるもの、少なくともその確信を与えてくれるものでもあります。

 具体的に言えば、私たちは「伝統」を踏まえて作品を鑑賞し、評価するべきであり、それと同時に、その新たな作品によって「伝統」という「全体」をさらに豊かにしていくべきなのです。

 最後に二つの疑問を考えておきましょう。一つはエリオットが答えている疑問です。つまり、このような立場は「馬鹿げた量の博識(衒学)」を必要とするのではないかというものです。

 これについてはエリオットもおそらくそうしているように、この「全体」ということを、「全部」と区別し、ある種の理念として捉えることが必要です。実際、「全部」を知ることなど絶対に不可能です。

 他方で、たった二三のものを見たり読んだりするだけでも、私たちが意識的に思考するならば、それらは相互にネットワークを形成し、一種の体系、ある一つの全体性を形成します。

 私たちとしては、この作品相互のネットワークとしての「全体」を漸次的に豊かにしていけば良いのです。その意味で「全体」は「全部」という意味では到達不可能ですが、作品が相互に織りなすネットワークの「全体性」としては可能であり、私たちの歩みを方向づける理念なわけです。

 また、この「全体」に関してもう一言しておけば、様々な作品が私たちの思考に媒介されずに、自然かつ客観的にネットワークをなすなどということは決してありえません。

 「全体性」は客観的に存在するというより、意識的な思考によって諸作品から構成されるべきもの、もっといえばでっち上げられるべきものであって、「伝統」なるものはある意味で常にでっち上げの要素を含みます。

 ただ、当然、作品の連なりに即しており説得力のあるでっち上げとそうでないがゆえに説得力のないでっち上げが存在することは確かであり、でっち上げだからといって、それらがまったく恣意的なわけではありません。

 ある意味で批評とは、このような全体性としての伝統をまずでっち上げ、それをより豊かにし洗練させ、説得的なものとしていく一連の作業として定義されうるでしょう。エリオットを引用しましょう。以下の文章は若い世代の詩人を批判する批評を再批判する文脈で言われています。

さて、もし[この批評が若い世代の詩人を批判して言うように]「私たちのスタンダードについて何かがおかしくなっている」として、若い世代が尊重しなければならない権威について知らないのは全て若い世代自身の責任なのだろうか。伝統を保存するのも批評家の仕事の一部なのである—よい伝統が存在するところでは。文学を絶えず、また全体的に見ていくのも批評家の仕事の一部なのであり、またこのことはとりわけ、文学を時間によって限定されたものとしてではなく、時間を超えたものとして見ることである。私たちの時代の最高の作品を2500年前の最高の作品と同じ目で見ることである。

 「文学を絶えず、また全体的に見ていく」、そうして「伝統を保存する」というのは、私にとって何がしか魅力的な定式化です。

 もう一つの疑問は、「ホメロス以来のヨーロッパ文学の全体」と「アニメ」のような典型的なサブカルチャーとの質的差異にかかわるものです。

 つまり、端的に言えば、先に私があげたような歴史との結びつきやら知の全体性やらについて、偉大なる「ヨーロッパ文学」なら分からないではないにせよ、サブカルチャーにそんな機能などないだろうという疑問です。

 さて、これはある意味では正しいようにも思いますが、少なくともその正しさは全面的なものではないとは言っておきたいと思います。典型的な事例としてリアリズムをとってみましょう。

 確かに、リアリズムは人間を描こうと試みるもの、現代における人間を描こうと試みるものです。それが知をもたらし、また私たちを歴史や社会と結びつけてくれることは分かりやすい。

 他方でアニメなどはリアリズムとは最も遠いもの、現実とは何の関係もないものに見えます。とはいえ、これは少々単純な見方でしょう。というのは、その作品内容が現実を直接に映し出さないにせよ、作品を作り、受容し、それに何かを感じ取るのは、現実に生きている人間だからであり、現実に生きている人間だけだからです。

 それが作られ、受容され、それに即して何かが感受されるということ、そういったことはそうする人間たちの感受性を前提としていますが、この感受性そのものは現実のものであり、現実の中で形成されるものです。

 この意味で作品は現実とのつながりを持っており、私たち自身の現実について、私たちの感受性について、何かしらのことを教えてくれます。この現実への連関がいわば間接的なものであるとしても。

 私としては、この点に十分に注意を払うならば、今問題にしている質的差異は相対的なものと考えることができると思うのです。つまり、アニメにせよ何にせよ、私たち自身についての知を全体として形成し、私たちを歴史や社会と結びつけてくれる機能をやはり保持していると思うのです。

2、「文化」と「教養」—アニメにおけるパロディの一機能から 

 さて、以上の大袈裟な前置きを経て、まだこれからも大袈裟に議論していくつもりですが、すこし『ステラ女学院 C3部』(以下「ステラ」と略す)に触れてみましょう。

 この作品は第一話でパロディの特徴的で意図的な使い方をしています。さて、それを具体的に見る前に確認しておくと、パロディとは他の作品の引用ないし他の作品への参照ですが、その第一次的な機能は、私の見る限り、ある共同性の形成、それを知っている者という共同性を制作者と視聴者の間に作り出すこと、制作者から視聴者に対してする「お前も知っているだろ、お前も仲間だろ」という目配せです。

 私たちはそれを知っているとき、製作者と自分が同じ文脈を共有する仲間であると感じ、自然と頬が緩み(要するにパロディネタに「笑い」)、その作品の視聴へと動機づけられます。

 ここで注意するべきは、知っている人があまりに少ないパロディネタは当然効果がないこと、他方で、誰でも知っているネタは他と区別される共同性を構成できないために効果が薄いことです。誰もが知っているわけではないのに、私たちは知っているというとき、私たちという仲間意識が生まれるのです。

 すると、パロディがその機能を安定的に果たしうるのは、誰もが知っているわけではないある種の事柄について知っているある種の集団が存在するときだけです。それが確信できるときだけ、パロディは試みられます。もちろん、この条件が成立しているのがオタク文化であり、ここで引用されうる知識の集合がオタク文化の「実体」です。

 さて、ステラがパロディネタを使えるのも、それがこのようなオタク文化の中で成立しているからですが、特徴的なのはステラがパロディネタを「他の作品群の中での自分の立ち位置を予告するため」に活用していることです。

 本作品は引っ込み思案な女の子の主人公「ゆら」が女子校に入学する場面から始まります。パロディはこのユラのモノローグとして挿入されるのですが、まず女子校に到着して早々、ユラは憧れる調子で「スールの誓いとかあるのかなぁ」などと妄想します。

 そして次に半ば無理やり連れてこられた「C3部 = サバゲー部」について、「あ、お茶ばかり飲んで何もしない部活だ」などと一人合点します。

 さて、元ネタは、「もちろん」、女子校の生徒会を舞台にして、近年ますますオタク文化においてプレゼンスを強める「百合」の潮流の先駆けになった「マリみて」であり、また、女の子たちのゆるい日常を焦点化する、いわゆる萌え四コマの一つの到達点である「けいおん」です。

 しかるに、これらのゆらの考えは裏切られます。この裏切られる妄想という仕方でパロディを挟むことにより、ステラは自らの作品としての立ち位置を第一話の時点で明確に、極めて経済的な方法で、表示しています。

 ステラは確かに女子校を舞台にするものの、百合的な関係性を匂わせる作品ではないですし、ゆるい日常を中心とした作品でもありません。むしろ、部活がある競技に関わっているときに発生しうる、「ゆるく楽しむ」という発想と「勝ちに行く」という発想との葛藤こそが、本作の一つの中心テーマなのです。

 蛇足ながら付け加えれば、「ゆるく楽しむ」モードから「勝ちに行く」モードに変化するとき、主人公が髪を切るというのも、例えば宮崎アニメなどに見られる伝統的なモチーフです。どうもアニメという媒体では女の子は髪を切ると強くなれるようなのです。

 それはそれとして、そろそろ道筋が明確になってきたと思います。

 パロディネタなるものがそもそも成立していること、そしてとりわけステラにおけるような特徴的な使用法から読み取れるのは、そこにおいてある一定の作品群の知識が前提とされているということ、その作品群が織りなすネットワークが制作者のうちにあり、また視聴者のうちにもあるということが信じられているということ、その意味で共有された「伝統」が存在するということです。

 だからこそ他の作品を参照できるのであり、さらに言えば、それらを用いつつそれらに対する距離を表示することができるのです。

 さて、ここで私たちが思い至るのは、エリオットは詩人と批評家、あるいは詩人にして批評家であるというあり方については語ったものの、受け手については語っていないということです。

 しかし、作品を取り巻く世界は詩人と批評家だけで回っているわけではなく、詩人が伝統を踏まえ、新しい伝統を創出し、批評家が伝統を語るにしても、そのような「伝統」、あるいはより正確に言えば、そこから「伝統」という「全体性」が描き出される作品群を、多かれ少なかれ共有している受け手がいなければ、それらの活動は片手落ちとなるでしょう。

 思うに、一定の作品群を知る受け手、それらを踏まえて創作する作り手、それらをある「全体性」をなす「伝統」として描き出し、その観点から作品を評価する批評家(批評家は独立して存在しているとは限らず、受け手や作り手と一致していてもよいのですが)、この三位一体が成立している時、私たちは正しく「文化」という語を使って良いのではないでしょうか。

 そして現在において、この意味の「文化」が社会的に可視的なレベルで、簡単に言えば大衆的なレベルで成立しているのは、いわゆるオタク「文化」しかないのではないでしょうか。

 それはお前がオタクだから他が見えていないだけだと言われればそれまでかもしれませんが、思うに、もちろん、半ば以上冗談で言うのですが、文化的にはオタクはいわば「勝利宣言」をしてもいいのではないでしょうか。

 このところをもう少し考えてみましょう。重要なことは、特定の作品群を「おさえている」集団が具体的に想像できることであり、そのようなことが可能なのは受け手の側に「おさえるべき作品」という一種の—いわばどこかしら教養主義的な—規範意識が成立しているからです。

 この規範意識と関係しているのが、おそらく、相互に連関しているジャンル意識と共同性意識でしょう。共同性意識というのは要するにオタクという集団への帰属意識であり、未だにオタクという言葉には「オタクなら~はおさえているべき」といった規範意識が随伴しています。

 しばしば、「【悲報】最近のオタクは◯◯を知らない」などという話題をネット上で見かけますが、これはオタクが現実にはさほど「おさえていない」ことを示すものであると同時に、やはり半ば以上冗談めかした形ではあれ、そこに「おさえているべき」という規範が存立していることを明らかにしています。

 他方のジャンル意識とは「アニメはとりあえずチェックする」といった、あるジャンルへの愛着であり、そのジャンルに属していることを理由にさしあたり「おさえる」といった行為を促す意識のことです。オタクとは、あるジャンル意識を共有する者たちの共同体です。

 もちろん、これらのことは他にも諸々の小規模な文化的集団において成立しているのでしょうが、それがいわば大衆的規模で成立しているのは、やはりオタク文化くらいなのではないかと私には思われます。

 というのも、例えばテレビ的なものに象徴されるような現代における大衆的文化の基本形にあって、その受容行動を決定しているのはジャンル意識ではなく、むしろ単にゴールデンタイムに放送されているという事実であり、CMが多数放送されている結果であり、またそのときどきで話題になっていることの帰結だからです。

 そこには時々の流行りはありますが、過去に遡ってそのジャンルに属するもの何かを視聴したり、そのジャンルに属するものを全体的に視聴したりという動機は存在し難いのではないでしょうか。

 かくして、そのような系統的でいわば「教養」的な作品受容、つまり、エリオット流の「伝統」の基盤が存在する、あるいは存在しうる現存の「文化」は、やはりオタク「文化」しかないように私には思われるのです。少なくとも、私にとってはそうなのです。

 ところで、「文化的な教養」「教養的な文化」の意義は、個人のレベルでは、それが思考の素材を増やすことを通じて個人において思考しうることの領域を拡大してくれることにありますが、集団のレベルでは、それがその集団において語られうること、つまり、共同的に思考されうることの領域を拡大してくれることにあります。

 オタクという集団において現に語られている言説がそれほど豊かであるかと言われれば、それは心もとないところですが、少なくとも一定の作品の知識の共有という基盤のゆえに、豊かな言説の「可能性」だけはとにもかくにも存在していると言っていいのではないでしょうか。

 思うに、現に飛び交っている言説がいわゆる断片的なネットミーム、「さすおに」「心ぴょんぴょん」「かしこまっ!」「万策尽きたー」等々であり、それを組み込んだ定型的で紋切り型なコミュニケーションに過ぎないにしても、そこで共同性が再生産されていることは確かであり、またそれらは全く無意味であることはありえず、それらのミームにはやはり何らかの意味内容が付着してはいるのです。それが使われるべき局面があればこそ、それは使われるのですから。

 とはいうものの、この種のネットミームはやはり何か本質的な変化を意味しているのかもしれません。もう少し考えてみましょう。

 それは引用好きのオタクという集団とコピペや予測変換などが存在するネットのテキストコミュニケーションが結びついた結果といってよいでしょうが、今ではこの種のネットミームの集積としてオタク文化の「実体」が存在すると言えるのではないかという印象すらあります。

 それは攻殻機動隊風に言えば、何がしかStand Alone Complex的な代物だといっていいのかもしれません(S.A.C.第一期の終わりで笑い男がそこに「個(体)性の喪失」という絶望を見、素子がそれに「好奇心」という希望を対置したことを思い出しても良いでしょう)。

 それはそれとして、それはいかなる意味で本質的な変化でありうるのでしょうか。結局、それはネットへの常時接続の問題だと言えるでしょう。実際、20年前、誰がアニメを見ながら実況する、それどころかアニメの動画にコメントが上書きされて流れるといったような事態を想定したでしょうか。

 コミュニケーションは比較的に稀なものでした。私たちはアニメをさしあたりコミュニケーション抜きで楽しまなければならず、勢い関心は内容そのものへ、そして諸作品の内容についての知の蓄積に向かいます。それは楽しみがコミュニケーション抜きの、一人だけのものであることの必然的な帰結でしょう。

 他方で、すぐにコミュニケーションが可能である状況、それどころか視聴とコミュニケーションが同時ですらあり得る状況は、関心の方向を変えます。作品の内容やそれについての知の蓄積ではなく、その場でコミュニケーションのネタを得ることが大切なのです。

 そうして話題になっている作品が視聴され、そこから切り出されてくるのが印象的で伝播しやすいネットミーム的な短いフレーズだというわけです。そして個人は個人であり続けるにせよ、いつのまにか皆同じフレーズを発している…、それこそS.A.C.的に。

 確かに、これは本質的な変化なのかもしれませんし、その時、オタクは死に、先に現代における大衆文化のあり方と呼んだもの、要するに今話題になっているものを話題にするだけの事態と似たようなものになってしまったのかもしれません。しかし、さしあたり、私は前段落で述べた立場に留まろうと思っているのです。

 さて、オタク文化の「勝利宣言」にせよ、コンテンツからコミュニケーションへの移行にせよ、そして「オタクは死んだ」問題にせよ、本節は言われ尽くされたことを反復したに過ぎない感もありますが、私なりにそれを整理してみることもやはり必要だったのです。

 何にせよ、これにて、私なりに「批評」「伝統」「文化」「教養」といった言葉の意味を明らかにし、それを通じて私の作品視聴の態度を規定するという本稿の目的は果たされたように思われます。

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