徹底解読:ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』

 本稿では現代フランスの作家ミシェル・ウェルベックの処女小説『闘争領域の拡大』について、その物語内容を(本書を読んでいなくても全てがわかるほど)丹念に要約しながら、いろいろと考えたことを書いていこうと思います。本書は少なくとも時代を描くという意味では「徹底的に文学している」という印象を強く受ける作品で、諸々の登場人物や出来事にしても、ウェルベック流の「時代の描出」の方向性に即して緊密に配置されています。

 そのメッセージ自体はいささか悲観的にすぎるかもしれませんが、読者たる私たち一人一人が重く受け止めざるを得ない力を持っています。

 以下では、まず第1節であらすじをネタバレで紹介しつつ、本書の中心テーマ、「セクシュアリティの自由化による『闘争領域の拡大』」を明らかにします。続いて第2節では、個別の場面や登場人物について、それらがテーマの中でいかなる役割を果たしているかを可能な限り明らかにすることで、中心テーマの脇を固め、本書の厚みをなしているサブテーマ(情報化、自由の拡大、愛の終焉、生の苦しみ…)を明確化しようと思います。

 この2つの節により、本書の全貌、その全般的含意を、ということは、それが描き出そうとする時代像を大掴みに捉えることができるでしょう。そしてそれを踏まえて最後に第3節で結論めいたものを述べようと思っています。全体の分量は24000字ほどです。

 以下では、本文を引用する際、(1-1)などと書きます。本書『闘争領域の拡大』は「3部」に分かれ、その下にそれぞれ10程度の「節」がある構成になっているので、(1-1)とは第1部第1節を意味します。引用は執筆者の訳によるものであり、間違いがあるかもしれません。

1、本書のあらすじと中心テーマ

1-1、中心テーマ—『闘争領域の拡大』とはどういうことか

 さて、本書についてはテーマから入ると分かりやすいと思います。それはタイトルにもなっている「闘争領域の拡大」なのですが、これは何を意味するのでしょうか。主人公がかつて書いたとされる「青春の自画像」(2-7)のごとき小説の一節で、以下のような問いが導入されます。

 「なぜ男と女は一度ある年齢に達すると互いをひっかけ誘惑するために時間を使うのか」(2-7)。これに対し若き主人公は、もちろん、「性欲」という自明な答えを認めはしますが、それだけではないというのです。そのために言われるのが、例えば、カップルを二人だけにした時には、彼らはたった17%の時間しか身体接触を伴ういちゃつきに費やさないのに、彼らを他の人の集団と混ぜると37%の時間そうするといったことです(これが本当の実験結果なのかは不明です)。

 なんにせよ、彼が言いたいのは、男と女がつがいになって「いちゃつく」のは単に性欲の結果ではないということ、もちろん、性欲の結果でもあるにせよ、そこには他人に見せびらかしたいといった社会的な欲望もあるということです。かくして若き主人公の中心テーゼは「セクシュアリティはひとつの社会的ヒエラルキーのシステムである」ということになります。

 これはなかなか含蓄が深いテーゼです。それが社会的なヒエラルキーのシステムであるということは、そこには社会的に価値付けられた「上」と「下」、「勝ち」と「負け」があるということです。お金のことを考えればわかりやすいですが、勝者たるお金持ちは多くそれを見せびらかそうとし、敗者たる貧乏人は多くそれを隠そうとします。「勝ち」には見せびらかしたくなる「優越感」が、「負け」には隠したくなる「劣等感」と「恥」が伴うわけです。

 もちろん、ことはそれほど単純ではなく、「お金持ち/貧乏」みたいな話題にいたずらに触れること、典型的には自分は「金持ち」だと見せびらかしたり、他人を「貧乏人」だと見下すことは「下品」ともされるのですが、それでも、そのような属性に付随する「優越感/劣等感」を免れている人、そしてその観点から他者を値踏みすることから免れている人は少ないでしょう。

 ある意味でそれらは隠されることを通じて、心の奥により一層深く根をはることにもなるわけです。「セクシュアリティはひとつの社会的ヒエラルキーのシステムである」とは、「セクシュアリティ」の領域が「お金」などとならんで、このような価値的な上下関係が形成され感受される領域として浮かび上がってきたことを意味します。

 だから先の実験のカップルは自らの勝利を見せびらかそうと一層いちゃついたのです。お金持ちがこれ見よがしに外車に乗るようなものでしょう。本作のいささか被害妄想的とも思える描写によれば、フランスでは「ダブルベッド」を買わないと「性生活を持っていない」とみなされ家具屋の適切な尊敬を得ることができないらしく、主人公によればある男はその悩みのために自殺したらしいのです(2-8)。

 かくして、私たちは「モテる」ことに優越感を抱いたり、「モテない」ことに劣等感を抱いたりし、そして他者を「モテる」「モテない」といった観点、そして、それに密接に連関すると考えられている「かわいい」「ブス」「イケメン」「不細工」…という観点から値踏みしたりするのです。そして、かく上下関係があるということは、そこにより「上」になろうという「闘争」があるということです。

 さて、「闘争」はわかったとして、では、「闘争領域の拡大」とはどういうことでしょうか。「セクシュアリティ」が以上のようなヒエラルキーが展開される場所という意味で「闘争領域」となったのは、最近であり、その意味で「拡大」があったということです。ここでのキーワードは「自由化」(2-7、2-8)です。

 要するに、彼によれば、以前は(少なくとも理念上は)婚外性交渉が禁止されており、本人たちの意思からはある程度独立に夫婦関係が形成されてしまうため、確かに性的な自由はなかったものの、少なくともほとんどすべての人が性交渉の相手を均等に一人手に入れられるという平等があったというのです。そこにはヒエラルキーが形成される基礎となるような社会的事実が存在しません。

 確かに美しい人と醜い人は存在したでしょうが、それが「モテる」「モテない」という差異につながらないとすれば、個々人の中で美や醜にそこまで大きな価値が置かれることはないでしょう。そこには「社会的なヒエラルキーのシステム」がまだないのです。

 しかるに、本書ではその画期を一つには1980年ごろに置いているようですが(2-7)、このような社会的規範、婚外性交渉の禁止はいまや無に帰し、無制限の性的自由化が始まります。その一つの帰結は、性的リベラリズム(自由主義)を経済的リベラリズムとの(粗雑とも思える)アナロジーで語ろうとする主人公が、どこかしらマルクス主義的な大げさな言葉でもって語るところの「絶対的窮乏化」(2-8)です。

 つまり、一方では多くの性的対象と多様な性的経験を獲得する富者が現れるのに対して、他方には「自慰と孤独に追い込まれる」(2-8)貧者が現れるわけです。このようなセクシュアリティの領域におけるヒエラルキーと闘争の出現、お金におけるヒエラルキーからは独立したヒエラルキーと闘争の出現、それが「闘争領域の拡大」というタイトルが言わんとすることなのです。

1-2、あらすじ—「革命」の挫折と、それから

 さて、このような基本的テーマを背景に物語の主軸をなすのは主人公とその同僚ティスランです。小説の全体は主人公の生活環境を描き出す第1部、主人公とティスランの出張と、そこでの出来事を描く第2部、主人公のその後を描く第3部の3部構成となります。

 主人公はどのような人物でしょうか。彼は先に見たような観察を書く理論家肌の人間ですが、職業は情報技術者、現在のいわゆるIT関係の仕事に携わっています。年齢はちょうど30才。

 二つの社会的ヒエラルキーのシステムとの関連で、まず「お金」の方について語るとすれば、おそらく1990年代初頭という作中時点、このインターネット・ブーム前夜においては、ティスランが言うように(2-1)、情報技術者は少なくとも「高い給与、ある種の職業的な尊敬、転職の容易さ」という点で「王」とも言い得る「勝者」です。

 しかるに、「性」の領域では主人公は自らを(相対的)弱者の側に位置付けます(1-3)。確かに、全く女に無縁というわけではなく、今まで何人か女がいたのですが、長続きしませんでした。「美しさも人格的な魅力も持ち合わせておらず、またしばしば鬱の発作に見舞われていたので、私は女性が優先的に求めるものと全く合致していなかった」。

 かくして「私は私に股を開くような(m’ouvraient leurs organes)女にいつも何か言外の意図を感じていた。根本的には彼女たちにとって私は単なる一時しのぎの代用品だということである」。そういうわけで前の彼女のヴェロニクと別れた後、二年間パートナーはいません。何もしなかったわけではないのですが、弱々しく一貫しない相手探しの試みは成功しなかったというのです。

 物語は、そんな主人公が農務省との間での新しいプロジェクトのちょっとした責任者となり、そのために出張するところから始まります。その同行者が同僚のティスランであり、二人が会社のあるパリからルーエンに向かう場面が第2部の始まりです。このティスランが問題です。

 彼はいつも「卑猥な話」(2-1)をする人物として語られ、行きの電車から始まって、仕事先、カフェ、レストラン、バーといった至るところで女を物色し、ある時は声をかけ、総じて言えば、女を引っ掛けようとします。

 ですが、彼は太っていてヒキガエルのような顔をしており、とにかく醜いし、また話もつまらなくて人格的な魅力も全くないため(2-1)、これが成功することは決してありません。電車で話しかけた相手の電話番号はもらえないし、職場の女性には近づくと嫌な顔をされてしまいます。

 出張初日の最後、二人は、男に引っ掛けられたい女学生がひしめくバーに行き着きますが、このいざという時にティスランはもう度重なる敗北に疲れ切っていて、今にも泣き出し自らの受難史を語りだしかねない勢いです。彼はお金の方面では主人公同様の勝者ですが、性の領域では絶対的な弱者なのです。彼は見ての通りまだ相手探しを頑張り続けていましたが、もう希望を失いつつあるのです。

 この後、詳細な分析は後回しにしますが、簡単に言うと、まず主人公が心臓の病気で少々入院します。退院して一度パリに戻り、次の出張先であるラ・ロッシュ=シュル=ヨンに行くと、主人公は今やほとんど絶望してしまったティスランと出会うことになります。

 ティスランは朝食の時に弱音を吐きます(2-8)。「くそっ、僕はもう28だってのに、いまだに童貞だ!…」。そして主人公に説明します。「まだ残っているプライドのおかげで未だに女を買えないんだ」。主人公は彼を批判したようです、それもそれなりに強く。というのは、ティスランは夜にもう一度自分の立場について弁明したからです。

 「僕は計算したんだ。一週間に一回は女を買う余裕がある。例えば土曜の夜なんかがいいだろう。たぶん、僕は最終的にはそうするすることで終わると思う。でも僕は、ある種の人々は同じものをタダで、しかも愛つきで手に入れることができることを知っている。僕は頑張りたい。今のところ、僕はまだ頑張りたいんだ」(2-8)。

 この後で主人公はある計画を思いつきます。ここからネタバレがきつくなりますので未読の方はご注意ください。主人公はティスランをクリスマス・イブの夜に連れ出し、あるバーで女を引っ掛けようとします(2-10)。ですが、ティスランはいつもながら失敗を重ねます。

 最後、ティスランが目をつけた女性は、お似合いの若いイケメン男性とカップルになり、フロアでダンスを始めます。ティスランはそれを見て、完膚なきまでの敗北を確信したのでしょう、固まることしかできません。

 主人公はそのティスランに以下のようにささやきます。ティスランが女性の性的空想を呼び起こす対象となることは決してないし、もしなったとしてももう遅い。青年期の恋愛を経験し得なかったという傷は一生消えない。取り返しがつかない。救いはない。

 だが、復讐はできる。ティスランでも女のもっとも大事なものを奪える。それは美でも愛でもヴァギナでもない。命だ。ナイフで脅せば心も体も支配できるんだ。

 これに答えてティスランはむしろ男の方を殺したいといいます。何はともあれ二人は、一緒に外に出た先のカップルを追いかけます。カップルはこのクリスマス・イブの夜がどういうわけか暖かいことに目をつけ、満天の星空の下、浜辺でまぐわろうという魂胆です。主人公はティスランにナイフをもたせて追わせます。すると、しばらくしてティスランは帰ってきました。

 ティスランは語ります。衣服を剥がれた女のあまりに美しい肢体を見た、けど女が男を脱がしてフェラし始めると、もう見てられなかった。二人は全然僕に気づいていなかったから、僕は殺せただろう、でも、しなかった。僕は代わりにオナニーをした。血は何も解決しない…。

 ティスランは酔った主人公を放置してパリに車で帰ってしまいます。その道すがら、彼は自動車事故で即死するのです。主人公は後にティスランの死を知って独白します。

 「少なくとも、彼は最後まで全力だっただろう。(…)少なくとも、彼は諦めなかっただろう、彼は腕を下げることはなかっただろう。最後まで、度重なる失敗にもかかわらず、彼は愛を探しただろう。車の中で鉄板に押しつぶされて、黒い服と金の装飾の付いたネクタイをつけたまま血まみれになって、殆ど人影のない自動車道の上で、それでも、私は知っている、彼の心の中には、まだ闘争が、欲望が、戦いへの意志があったということを」。

 さて、新しい「闘争領域」での革命闘争が、かく無残に失敗して、第3部が始まります。主人公は出張を終え今やパリに戻ります。主人公の行き詰まりは頂点に達し、自傷行為などに及びますが、ティスランの死を知らされると、ついに「究極の命令の予感」(3-2)なるものを感じてサン=シルグ=アン=モンテーニュへの年越し旅行を決意します。

 しかし、結局は途中で引き返してしまいます。それが12月31日。帰ってきた主人公は何かをしなければという焦燥に駆られますが、ただ「失敗」しか感じられません。1月1日に主人公は精神科医を訪ね、鬱と診断されて会社を休職、晴れて自由の身となり精神疾患の療養施設に入ります。さしたる改善もないまま6月に療養施設を出た主人公は、再び以前行きそびれたサン=シルグ=アン=モンテーニュを目指します。

 ここはいまや精神科医との会話の中で父母の出身地であると明らかにされました。精神科医は主人公は「アイデンティティの探求」をしたかったのだなどと知った口を聞きました。主人公は納得はしませんでしたが、「理論があることはよいことだ」と思って反論しませんでした。何はともあれ、主人公は父母の故郷にある森の中で何かを感じます。かくして物語は幕を閉じます。

2、テーマのより詳細な読解

 さて、以上で中心テーマとあらすじの紹介が終わりましたが、これだけでは本小説における出来事や人物の緊密な配置や、舞台設定の巧みさが持つ魅力、そしてそれらが打ち立てる本書のいわば「思想内容」の豊かさを全く汲み尽くすことができません。

 それを秩序立てて語るのは難しいのですが、私としては以下のような順序で書いていきたいと思います。「2-1、情報化・自由・愛」では、本作品の時代的な舞台設定をなす「情報化」、それと密接な関連に置かれる「自由」と「愛」の問題を取り扱います。いわば、本書の背景をなす思想です。

 「2-2、主人公の思想の遍歴と結末」では、本小説における主人公の経験の流れを一貫した形で意味付けることにしましょう。主人公は何を考え、何を経験し、なぜ病気になったり、殺人計画を立てたり、鬱になったりしたのでしょうか。そして私たちは本書の結末をどう捉えるべきでしょうか。

 こういった問題に私なりに答えを出したいと思います。「2-3、社会的ヒエラルキーの諸作用」では、本書で語られる「セクシュアリティはひとつの社会的ヒエラルキーのシステムである」という事態の現出が「セクシュアリティ」や「愛」にもたらす諸作用について、本書で語られていることを整理します。「絶対的窮乏化」を云々するだけでは単純すぎるのであり、本書ではもっと豊かなことが言われています。

2-1、情報化・自由・愛—なぜ現代は(主人公によると)「苦しみ」の時代なのか

 本小説は先にも見たようにインターネット・ブーム前夜の1990年代初頭が舞台ですが、主人公をIT技術者とすることで「情報化」を物語のもっとも基底的な背景の一つとして設定します。この「情報化」に関しては転職していく同僚のフレオーと主人公の考えが真っ向対立していることに注目することで本書の考えを分かりやすく位置付けることができます。

 さて、情報化革命の信奉者であるフレオーの立場とは「社会の内部における情報の流れの増大はそれ自体よいことだ」というものです(1-10)。というのも、彼によれば、「自由とは諸個人、諸プロジェクト、諸組織、諸サービスの間に様々なつながりを打ち立てる可能性以外の何物でもない」からです。

 情報の流れが増えれば、例えば個人がそれまで繋がりようのなかった他の個人とつながる可能性、フレオー的な意味での「自由」が増えます。したがって、情報化革命とは自由の増大、すなわち、自由の革命であり、それ自体、寿ぐべきものなのです。

 さて、ここまでは主人公も反対ではないのですが、フレオーの送別会に際して、こう考えます。「私がフレオーに再会することは決してないだろう」(1-11)。なぜかといえば、一般的に言って、「今日では人が再会することは稀だからだ、たとえ関係が熱狂的な雰囲気で始まったケースでさえも」。

 その理由を推察すると、それは私たちにはあまりに多くのつながりを打ち立てる可能性があるために、私たちがある一つの関係を長期的なものにする試みをやめてしまうからでしょう。情報の増大は関係の可能性を増大させますが、関係を継続させる意欲を減退させます。もっと別の可能性、もっとよりよい可能性がある(と感じられる)のですから。

 「もし人間関係がだんだんと不可能になっていくとすれば、それはもちろんフレオーが熱狂的な預言者であった自由の度合いの増大に比例してのことである」。主人公に言わせれば、フレオー自身、極端に自由であったために、いかなる「人間関係(liaison)」も持っていません。主人公の見るところ、彼は童貞なのです(1-10)。

 さらに主人公はこの変化を小説という形態そのものの変容の必然性と結びつけています。小説は濃密で長期的な関係を描き出すための形式です。「小説的な形式は無関心や無を描き出すために考え出されたものではない。もっと平板で、もっと簡潔で、もっと陰鬱な語り口を発明しなければならない」。

 そして主人公によれば、このような人間関係の可能性の増大とそれゆえの(長期的)関係の不可能化が破壊するものの最たるものこそ「愛」なのです。彼によれば、「愛」とは例えば40年連れ添った夫婦において語られるべき事柄です(2-7)。

 主人公は語ります(2-10)。「愛とは、希少で、人為的で、遅咲きの現象であり、そういうものとして、稀にしか一緒に現れない特別な精神的諸条件の中でのみ花開く。そしてその諸条件とは、あらゆる点で、私たちの時代を特徴付ける性的自由とは対立しているのである」。

 「(主人公の元彼女の)ヴェロニクはあまりに多くのディスコ、あまりに多くの恋人を知っていた。こんな生のあり方は人間存在を貧しくし、しばしば重大で決して取り返しのつかないダメージを与える。無垢としての、幻想の能力としての、すべての異性を愛される一つの存在へと凝縮する能力としての愛は、性的な放浪の一年を滅多に耐えきれないし、二年ともなれば決して耐えきれない」。

 主人公が言いたいのは、「愛」とは「すべての異性を愛される一つの存在へと凝縮する能力」であり、そのたった一人と長い時間を紡ぐ中でその関係をゆっくりと豊かにしていくことなのだということでしょう。主人公に言わせると、それを人間関係の可能性の増大、ここではとりわけて性的自由がダメにしてしまうわけです。

 というのも、その観点からすれば、別の相手、もっといい相手がいるからであり、現にいるこの相手との関係を豊かにしていこうという気は起きないからです。「ヴェロニクは、私たち全員がそうであるように、愛という観点からすれば犠牲にされた世代に属していた」。あまりに多くの恋人を知っていたヴェロニクにとって、主人公は「一時しのぎの代用品」でしかなかったわけです。

 さて、ここから主人公の思想、現代を特徴づけるのは前例のない「苦しみ」の支配であるという考えが出てきます(3-5)。というのも、主人公の考えを敷衍してみれば、「老い」という不可避の出来事とともに衰えゆかないもの、それどころか逆に時間の積み重ねによって豊かになりうる唯一のものこそ、かく不可能になりつつある「愛」だからです。

 他方で、性的自由に基づく、より良き相手、より多様な相手、よりエキサイティングな関係への志向は老いと共に減退を免れません。

 「老いると人はより性的な意味で魅力的でなくなり、この事実によって苦しむことになる。人は若者に嫉妬し、この事実によって若者を憎む。この憎しみは、告白できようもないものであるために悪化し、だんだんと激しいものとなる。しかし、続いて、それは和らぎ、消えていく、すべてのものが消えゆくのと同様に。もはや苦しみと嫌悪感、病気と死を待つことしか残されていない」(2-10)。

 主人公に言わせれば、「情報化=自由化」はすでに解き放たれた性的自由を関係の可能性の増大によって後押しするもの、そうすることで「愛」をなおさら不可能にしていくものに他なりません。だから彼は情報化革命の支持者たるフレオーに反対して言うのです。「情報技術は私に吐き気を起こさせる。(…)世界は全てを必要としている、これ以上の情報以外は」(2-6)。

2-2、主人公の思想の遍歴と結末

 さて、本項ではこのような思想をもつ主人公が何を考え、何を経験し、なぜ病気になったり、殺人計画を立てたり、鬱になったりしたのかを考えましょう。

 主人公はよく吐く男です。物語の冒頭でも吐いています。この嘔吐の意味を考えましょう。もちろん、直接の原因は飲みすぎたからなのですが、小説を読む上ではそれはあまりに単純な考え方です。あるいは、言い方を変えると、主人公はなぜそんなに飲まざるを得なかったのかを考えるべきだとも言えるかもしれません。

 さて、同僚のパーティーの場面、主人公は二人の太った醜い女の会話を聞いています。彼女たちは超ミニスカートで職場に来た同僚について肯定的に論じています。曰く、女は自由に着飾る権利があるのだし、これは男を誘惑しようという欲望とは何の関係もない、自分で気にいるためなのだと。

 主人公は吐き捨てます。「フェミニズムの凋落の、悲しむべき、究極の残滓」(1-1)と。主人公は知っています。その超ミニスカート女の上司が、その女を見て勃起していたことを。ここで眠りに落ちた主人公は、この状況を象徴化した夢を見ます。目を覚ましたら主人公は吐いていたのです。

 なぜ、主人公は吐いたのでしょうか。まず目につくのは、主人公の以上のセリフからして、主人公は太った女たちのうちに自己欺瞞を看取しているのだろうということです。フェミニズム以前、単純化していえば、女性は自分で生活の資を稼ぐことを妨げられ、できることは男に選ばれ、男に従うことだけでした。

 これに対してフェミニズムは女性の自立を目指し、女性が生活の資を稼ぎうるような制度への変化を求め、また男に選ばれるだけが女性の価値だといったあり方や考え方の変容を主張したといえるでしょう。醜い女たちはその言説を引き継いでいるわけですが、主人公から見るとき、それは単なる自己欺瞞にしか聞こえません。

 太った醜い女などほとんどの男は選ばないのであり、その選ばれないという事実を認めないために「自分で気にいるため」などといっているのではないか。そして何がしか悲しみを誘うのは、そんな風に太った醜い女が自己欺瞞のために正当化したミニスカートの女がちゃっかり上司を誘惑しているという事実です。

 醜い女たちがフェミニズムの残滓で自らが性的競争の外部にいるかのように自己欺瞞をして敗北の事実を糊塗していること、それだけでも見苦しい事態ではありますが、きわめつけは、その間に超ミニ女がちゃっかりと性的な力を使って社会的上昇を図っているのことの容赦のなさでしょう。

 言い換えれば、ここに現れているのは性的競争の外部にたっているという認識の空想性であり、性的競争の非情さです。これが主人公に吐き気を催させたのだと思われます。

 これは女性蔑視的な考え方でしょうか。結局のところ女は男を誘惑し男に選ばれるという目的から外には出られないのだと。おそらく、そうでないといえるのは、主人公からすれば男にとっても性的競争の外部など存在しないからです。この点で男も女も違いはないのです。そして、この外部のなさこそが主人公を狂わせていったものなのであり、主人公はある意味でこの問題に最も苦しんだ者なのです。

 この点を見ていきましょう。実際、主人公の観点は完全に性的なものに浸透されています。主人公は取引先の農務省の職員カトリーヌと会って、美しくないと思いつつも、彼女は自分を好きにならないだろうなどと性的関係の可能性について考えを巡らしますし(1-7)、主人公の男性との関係すら、どことなく性的な雰囲気を漂わせます(1-6の上司との関係、1-9の情報技術研究の長との関係)。

 主人公の思考が完全に性化されている以上、どうしても彼は性的競争の中に巻き込まれざるを得ないのですが、この自由な性的競争こそ、主人公に言わせると、一般に愛を不可能にし、私たちに苦しみを強いるものなのです。しかも、美しくもなく人格的魅力も欠く相対的弱者である主人公にとっては、問題はこの「一般」的なものにとどまりません。

 彼にとり、女性が自分を選ぶのは「一時しのぎの代用品」としてなのであり、また自分にとっても、自分になびいてくるような相手は素直に愛せるような相手ではない「妥協」の対象であることがしばしばなのです。自由な性的市場が開かれる時、私たちの理想はどうしても高まってしまうためです。このことを象徴するエピソードがある農務省職員の退職記念パーティーで農務省職員カトリーヌに誘惑された時の主人公の反応でしょう(1-11)。

 美しくもないのにパーティーということで今夜はおしゃれをしているカトリーヌは明確に主人公を性交へと向けて誘惑するのですが、彼はというと、「彼女は自分が好きなのだ」などとは考えず、こう思います。

 「私には分かる。彼女が性交されることへの強い欲望を持っていることが。彼女が下腹部にもっている穴、それは彼女にとってあまりに無益なものとして現れているに違いない。ペニスなら人はいつだって切り落とすことができる。しかし、ヴァギナの空虚さをどうやって忘れることができるだろう」。

 女性は時にヴァギナの空虚さを埋めるというためだけにあり合わせに男を求めることがあるのだし、今回もそうだというわけです。主人公はそれに一度は答えようとしますが、結局はやめます。「(誘惑に答えたとしても)彼女は受け入れないだろう、あるいは、私はまず彼女の腰を抱きよせ、彼女は美しいと宣言し、彼女の唇に優しいキスで触れなければならないだろう。まったく、ここには出口がない」。そして主人公はトイレで吐くのです。

 彼は単に一時の代用品として求められ、その求めに応えるためにさえ、思ってもいない「愛」を囁かなければならない。「嘘」に身を浸さなければならない。カトリーヌの「嘘」に自らの「嘘」を重ねなければならない。おそらく、この運命が主人公に吐き気を催させたのだと言っていいでしょう。この吐き気を催す出口のなさが、主人公のごとき相対的弱者の運命だというわけです。

 主人公の「思想」から見れば、それこそ性的自由以前であれば、カトリーヌと主人公が何はともあれ結婚して、そこで愛を育むことができたかもしれないのに、いまや事態はこうでしかありえないわけです。

 蛇足ではありますが、今引用した一節について少し付け加えておきましょう。先に性的競争の外部がないという点で男と女に差異はないと言いましたが、本書の考えは、先の引用から分かる通り少し違います。男には「去勢」という外部に出るための絶望的な方法があるのです。

 これこそ本書で「去勢」がこの箇所を含めて三回言及される理由でしょう。主人公自身去勢の誘惑に駆られますし(3-4)、主人公が精神疾患の療養施設で多くの自傷行為が愛を得るために行われていることを喝破する文脈で、成功した去勢の試みがあったことが言及されます(3-5)。性的な自由と競争が愛を困難にしていく中で、愛を求めて性器を切断すること。何がしか悲劇的な抵抗がそこには見て取れます。

 出張前最後のイベントである退職記念パーティーでのカトリーヌとの一件を経て、かく主人公は性的競争の内部に飛び込むことへの希望を失います。そこには「出口がない」。それが主人公に反省を促すわけです。出張が始まった後、主人公は週末もパリに戻らずにルーエンにとどまり、その広場で「事態を明確にしようと決意」して考えにふけります(2-3前半)。

 そこにたむろする人々を見て、主人公は、自分は彼ら、主人公曰く「本質的には消費に割り当てられた快適な午後を過ごしているという確信」を持ち、「自分自身と世界とに満足しているように見える」彼らとは違うと考えます。その違いを彼は明確にできませんが、思うにそれは彼が性的競争から本格的に脱落しつつあることによるのでしょう。続けて彼は言います。

 「私は[自分の生が充実していないという意味で]あまりに少ししか生きていないので、自分は死なないと想像する傾向がある。人間の生がそんな程度のものに還元されるということはありえないように思われるのだ。人間はどんなにそうすまいと思っても、遅かれ早かれ、何かが起きてくれると想像してしまう。深い誤りだ。生というものは、まったく、空虚でかつ短くもあり得るのである。日々は何の痕跡も思い出も残すことなしに、貧しく流れ行く。続いて、一撃で、それは止まってしまう。

 そしてまた私はしばしば、ぼんやりしたいわば不在の生に長く甘んずることができるようになるだろうという印象を持つ。倦怠は、比較的に無痛であって、私は倦怠の中で日々の雑事をこなし日常を生き続けることができるだろうと。新たな誤りだ。長い倦怠というのは維持可能な立場ではない。そえは遅かれ早かれ明らかにもっと苦しい認識、明白な苦痛の認識に変わってしまうものだからである。これこそまさに私に起こりつつあることだった」(1-12)。

 私の状況も似たようなものです。生の充実を感じず、それに満足していないからこそ死を受け入れられない、それどころか死をありえないもののように考える。そしてそんな不満足な倦怠をなんとかだらだらやり過ごしていく。それでなんとかやっていけるような気がする。しかし、人は老いて死んでいくわけで、おそらくは老いの実感が倦怠を明白な苦痛へと変容させるのでしょう。

 さて、それはそれとして広場の思索に続く場面に焦点を移していきましょう。この後の場面は、主人公にやはり性的なものの外部がないことを知らしめるべく配置されているものと思われます(2-3後半)。

 主人公はまとまらない思考を放棄してカフェに入ります。そこには凶暴そうな犬がいたのですが、その犬がある若い女性の席の前に長く留まって睨みを利かせています。主人公は、当然何かを期待してでしょう、犬を追い払ってあげようかと考えます。

 そう、こんな言うなれば「男を見せる」機会が、普通の性的競争とは少しばかり別なゲームを開くという幻想には、日本でも『電車男』という作品がその十全な表現を与えていました。それはそれとして主人公が介入しようとする直前、犬は立ち去ります。不発。しかし、主人公は自らが期待してしまったということに気づいたはずです。つまり、やはり自分が性的競争の外部には立てないということに。

 続く場面、主人公は双方年老いたカップルの古風な結婚式を目撃します。太った赤ら顔の農夫と、もっと太った四角い顔のメガネの女性の結婚式。それは主人公に「残念ながらこう言わざるを得ないが、これらすべてがちょっと馬鹿げているという印象を与えていた」と語らせます。

 実際、通りすがりの若者はこれを笑います。主人公は不快になって立ち去ります。おそらくこういうことでしょう。このような結婚は自由な性的競争の観点からすれば妥協に妥協を重ねた末の敗北宣言に他ならず、笑ってしかるべきものなのです。主人公はそれを弱者たる自分に可能な恋愛と重ね合わせたのではないでしょうか。

 こうして主人公がたどり着くのがポルノ映画館です。そこにいるのは主に定年した老人と移民、つまり、性的競争から排除された人々ですが、カップルも少しいます。どういうわけか席を動く人がしばしばいることに主人公は気付きます。その訳を知ろうと自分も動いてみた主人公がつきとめた真実は、要するに女にペニスを見せるために彼らはカップルに近づいて自慰するのだということです。

 排除された者たちが見せる、この滑稽な行動。主人公が急遽パリに帰ろうと切符を買うのも頷けます。といっても、切符を買うだけで電車には乗らないのですが。そう、主人公が逃れたいもの、それがパリに帰れば逃れられるようなものではないからです。逃げ道はないのです。

 続く日、主人公は心膜炎なる病気にかかり入院しますが(2-4)、これは主人公にとって喫煙が唯一の自由として位置づけられていたことと関係しているでしょう(2-1)。以上で描き出された状況の出口のなさが主人公に唯一の自由としての過度の喫煙を強い、それが病気を引き起こしたのです。

 さて、システムからの逃避活動としての喫煙が病気という行き詰まりに至ったとすれば、主人公が退院後に別の逃げ道を探すのも当然でしょう、それが現体制における「絶対的弱者」たるティスランをけしかけての復讐であり、一種の部分的な革命運動です。

 何も得られなかった者が女性の最も大切なものである「命」を獲得する大逆転が起きるのですから。主人公にとっては出口なしの状況に一種の風穴を開けてくれるものだったはずです。しかし、先に確認した通り、ティスランは殺人計画を放棄し、さらに事故死してしまいます。

 ひょっとすると、直後の3-1で表明されるロベスピエールへの共感、ロベスピエールの処刑によって革命が終わったことの確認などは、この文脈で読まれるべきなのかもしれません。主人公によって仕立て上げられた即席革命家ティスランはロベスピエールのように「世界の秩序を疑問に付す」(3-1)ことで、いわば「処刑」されたというわけです。

 さて、この革命が失敗した後、主人公は自殺について考えることになります。正確に言えば、自殺の「逆説的効用」についてです(3-1)。曰く、チンパンジーを出口のない檻に閉じ込めると自傷行為などを行った果てに73%が死に至るのに、底なしの崖に面した出口を一つ作るだけで多くのチンパンジーたちは、飛び降りはしないまま、精神的に落ち着くというのです。

 主人公が言いたいのは、殺人計画という一つの出口が潰れた後の自分には自殺という出口—「外部」—を空想することで落ち着くことしかできないということです。主人公は「いのちの電話」に相談しようとしますし、それこそチンパンジーの逸話をなぞるように自傷行為にも及びます(3-2)。先に見たように去勢空想も現れます(3-4)。

 そんな主人公への最後の打撃がティスランの死の知らせであり、その後に主人公は父母の出身地であるサン=シルグ=アン=モンテーニュへの旅行という新たな逃げ道を案出しますが、これも挫折。最終的に精神科医のお世話になることになり、鬱と診断されて休職し、療養施設に入ります。

 ところで、主人公は「精神分析」を敵視しており、ヴェロニクと別れた経緯を踏まえて「精神分析家の手におちた女性は一切の使用にまったく適さないものになってしまう」(2-8)と厳しい批判を展開していますが、この場面でも精神科医の蔵書に性関係の雑誌がないことから彼が精神分析家でないのを見てとり安心しています。

 実際のところ、性的な領域全体の行き詰まりから逃れたい主人公にとって「性」にこだわる精神分析ほど厄介な教説はないでしょう。その話をされても主人公は追いつめられるだけなのです。このことは精神分析の言説からしてもよくよく考えてみなければならない問題であるように思われます。

 この後は何が起きるでしょう。聖職者の友人であるビュヴェとの会話がありますが、これは聖職者という性の外部にたっているはずの人も、やはり性からは逃れられないということを言わんとするものです(3-4)。

 彼は第1部でも登場し、現代の性への過剰な関心はメディアの作り出す偽物であり、「生の力の枯渇」への解決はキリストであると息巻きます(1-8)。聖職者として彼は性的なものの外部に立っているふうなのです。しかるに、第3部で再登場する彼は疲弊しており、ひどく酔っぱらって何かを告白するような調子です。彼は語り出します。

 自分の勤める教会に通ってくれる数少ない信者の一人である老女が病気になり亡くなったのだ、と。ですが、重要なのはそれがベッドを空けるための故意の殺害だったと告白しに来てくれた、若い女性看護婦との関係です。彼は彼女と毎晩会いました、ビュヴェは否定したいようですが、簡単に言えば、彼は性的欲望を感じていたのです。

 なのに、ある日、彼女は他の男と会ったことを告げます。ビュヴェは言います。彼女は「聖職者と寝るという考え」に興奮していたのだと。正確に言えば、このように「他の男」への言及とともに捨てられることを通じて、ビュヴェは自分が性的な欲望を感じていたことを自覚せざるを得なくなったのでしょう。彼は最後に言います。「もう現前が感じられない」。もちろん、「キリストの」と付け加えるべきところです。

 続いて療養施設での40歳の女性心理学者との関係が重要です。彼女は主人公の「あまりに一般的、あまりに社会学的」な語りを批判します(3-5)。「社会について論じることで、あなたはその後ろで自分を守るための障壁を作っているのです」「私たちはあなたの個人的問題に取り組むために」「この障壁を壊す」ことをしなければならないというわけです。

 そんな彼女にある日、主人公は現代は苦しみと不幸の時代でしかありえないという「一般的、社会学的」な議論をしますが、逆に彼女に最後にセックスをしたのはいつだと「個人的」な質問を返され、二年以上前だと答えると、彼女は「ほとんど勝ち誇ったように」「まぁ!なに、そんな状況でどうやって人生を愛そうっていうの?」と述べるのでした。

 主人公はじゃあセックスしてくれるかと頼むと、彼女は拒否し、担当は変わってしまいました。性の領域に引き戻された上で、それで何かを得ることは拒否されてしまったわけです。そうこうするうちに主人公は施設を出ることになります。当然のごとく、状況は何も改善されていません。

 最後、主人公はサン=シルグ=アン=モンテーニュの森の中で何かを感受します(3-6)。しかし、その含意ははっきりいってあまり明確ではありません。ここで新しいのはこれが主人公にとって作中ほとんど初めての自然とのふれあいだということでしょう。

 主人公は美しい風景の中で何かが可能であるということ、新しい出発を予感します。自分へ立ち返り、自尊心を感じます。何か喜びの可能性を感じ、長く付き合ってきた「理論的なもの」と別れます。あの女性心理学者が言った通りのことが起きつつあるようにも見えます。しかし、最後にはやはり「崇高な融合は起きず」「(自分と世界との)分離の印象は完全なものだった」「人生の目的が欠けている」と語られます。

 これにどう意味を与えれば良いでしょうか。近代文学でしばしば話題になるテーマに「知と愛」というものがあります。「知」、理論とは対象から距離をとることであり、とどのつまりは自己へ立ち返ることです。他方で「愛」とは対象へと没入することです。だからこの二つが対立することは必然的なことなのですが、ここで主人公は「知」の外皮を一つ脱ぎ捨てたといってよいでしょう。

 ただ、それがすぐに「愛」を可能にしてくれるかというと、主人公がここまで展開してきた考えが現実にやはりある程度は即しており、それを突破することができていない以上、そう簡単ではないということではないでしょうか。

 この「分離の印象」なるものを主人公が最初に感じたのは、ヴェロニクと別れた時、主人公の側からすれば「能力の及ぶ限り愛した」のに、ヴェロニクは何も返してくれず、かくして「その愛は全く無駄だった」と言わざるを得ないような経験(2-8)をしたときだったのだし、主人公は愛を得ることを諦めつつあるティスランにもこの「分離」の感覚を感じ取ります(2-8)。

 つまり、世界と自分が分離されているという感覚は愛を断念したときに生じるわけです。そして、その問題、愛の不可能性の問題は何も解決されていない。一言で言えば、ここでは著者ウェルベックはまだ答えを与えていないのです。

2-3、社会的ヒエラルキーの諸作用

 さて、最後は「セクシュアリティはひとつの社会的ヒエラルキーのシステムである」ということの含意について本小説が教えてくれることをもう少し汲み取っておきたいと思います。

 実際、私たちは何かあるものが「社会的ヒエラルキーのシステム」を形成するようになるとはどういうことか、そしてそれはどういう帰結を生み出すかを問うべきです。これは相当に面白い問題です。

 私としては「どういうことか」という問いに対してさしあたり、「その領域にある互いに異なる状態について、上と下という価値的な評価が社会的に共有された形で形成され、その価値付けが多くの個人にも内面化されるようになること」と答えておきたいと思います。

 例えば、数学など学校で与えられる問題を解くことができるという意味での「頭の良さ」という例を考えてみましょう。これは確かに現代の学校化された社会、全員が学校へ行くことを強要される社会では、学校での評価、そして学歴を通じた社会での評価を通じて多くの人に内面化されています。そこには「社会的ヒエラルキー」があります。

 しかるに、例えば原始社会においてもこのような頭の良さの差異は存在するでしょうが、それはおそらく「社会的ヒエラルキー」を形成しはしないでしょう。それを役立てる機会、つまり、それが社会的に価値付けられた差異に繋がる機会はほとんどないからです。おそらく、狩りに役立つ体力の方が重要でしょう。

 ここから分かるのは、「頭の良さ」は派生的な価値だということです。現代においてそれが「社会的ヒエラルキー」を形成しうるとすれば、それは学校の成績が将来の職業選択に影響すると考えられている限りです。職業の問題、単純化して言えばお金はさまざまな資源へのアクセス可能性を高めるものとして誰もが欲しいものであり、かくして直接的に社会的ヒエラルキーを形成します。

 社会的ヒエラルキーはほとんどの人がそれを求めるという意味で人間の基本的な欲望に根ざす時にのみ確固たるものとして成立するのです。「頭の良さ」といった派生的な要素に関して言えば、かくして「そんなの社会では役立たないし」ということで社会的ヒエラルキーの作用はかなりの程度キャンセルされうるわけです。

 さて、本書の主張は性の自由化によって、性的領域が、お金、つまり旧来のいわゆる階級と並んで、「社会的ヒエラルキー」を大々的に形成する時代が到来したというものです。かつてもかっこいい人や美しい人はいたでしょうが、婚外性交渉が禁止され、一夫一婦制が(少なくとも理念上)貫徹されていたところでは、それは有意味な差異を帰結しませんでした。

 性が自由化されて初めて「モテる」「モテない」といった社会的に価値付けられうる差異が生じるようになったわけです。これは一度生じてしまえば、性的欲望という人間の基本的な欲望に根ざしているがゆえに強固なものとして君臨します。さて、以下では本書に即して、このような「社会的ヒエラルキー」の形成の諸帰結を問うことにしましょう。

2-3-1、嫉妬・劣等感・弱者の連帯(?)

 さて、社会的ヒエラルキーが発生するところ、まず生じるのが嫉妬と劣等感です。この嫉妬という側面については、おそらくセクシュアリティと社会的ヒエラルキーの問題について研究するために、主人公が高校時代にちょっかいをかけたブリジットという女の子に即して論じられています(2-7)。

 彼女はとても太っていて顔の作りも醜く、誰にも話しかけられず、誰にも話しかけることなく、家と学校を往復するだけの毎日だったのですが、セクシュアリティに対する社会関係の作用に興味がある主人公は彼女に性的空想を起こさせるような関係を築こうとします。たびたび話しかけ、少しの間放置し、最後には頬にキスをします。主人公は嫌なやつなのです。

 それはそれとして主人公は彼女を以下のように描写します。

 「彼女は単に醜いだけではなく、明瞭に性悪だった。性的解放に直撃されたため(それは80年代の初めで、エイズはまだなかった)、明らかに彼女は自分をなんらかの処女性の倫理で守ることはできなかった。さらに、彼女は自分の状態を「ユダヤ-キリスト教の影響」で説明するにはあまりに賢く明晰だった。(…)すべての逃げ道が塞がれていたのだ。彼女は物言わぬ憎しみを抱いて他者の解放を横目で見ていることしかできなかった。男たちが他の女たちの体にカニのように自らの身体を押し付けるのを見てとる。男女の間に結ばれていく関係を、そこで生じている経験を、そこで展開されているオーガスムを感じとる。それは、他者によって見せびらかされる快楽の周りで、あらゆる点で物言わぬ自己破壊を生きることだ。彼女の青春はそんな風に過ぎていったにちがいない。彼女はそんな風に生きてきたのだ。そこでは嫉妬とフラストレーションがゆっくりと発酵し、発作性の憎しみの膨張へと変化していったのだ」。

 説明の必要はないでしょう。自分もその価値を奉じているのに持つことのできないものを持っている人に対して、人はしばしば嫉妬し憎しみを抱くのです。

 これほど激しくない反応は劣等感であり引け目です。これは職場に新しく入ってきたイケメン社員トマソンに対するティスランの反応を通じて描かれています(2-1)。トマソンはまず主人公と握手し、続いてティスランと握手しようとします。ティスランもそのつもりで立ち上がるのですが、そこで身長差が40cmほどもありそうなことに突然気づき、ティスランは劣等感に駆られて真っ赤になりつつ乱暴に着席してしまうのです。

幸運なことにティスランはまだトマソンと一緒に出張する機会はないのですが、主人公の推察によれば、そんなことが起きうる気配を感じるたび、ティスランはその可能性について考え、つらい夜を過ごしているのです。人はその人と一緒にいることで絶えず劣等感を刺激されるような人とは一緒に居たくないものです。これを「引け目」と呼んで良いでしょう。

 それに対してティスランは主人公との出張を大変に喜びます。「君と僕はとってもいいチームだ…」(2-1)。とはいえ、主人公はすぐにこの喜びの種明かしをします。「実際、私は彼がこんなに私に同行することを好んでいる理由を知っている。それは私が決して恋人のことを話さず、女性関係における成功の見せびらかしをしないからなのだ。彼はそのために安心して(これは正しいのだが)私が何がしかの理由で性生活を持っていないと想定できるのである。これは彼にとっては受難のうちでの苦しみの軽減、ちょっとした安らぎなのである」。

 これはいわば弱者同士の連帯です。強者との共在が劣等感を刺激し引け目を感じさせるとすれば、弱者同士の付き合いは何がしか安心感をもたらします。しかるに注意するべきは、この種の連帯がしばしば暗黙の足の引っ張り合いとでもいうべき様相を呈することです。ティスランは未だ努力する人として、この種の足の引っ張り合い的な発想とは無縁なのですが。

 さて、またここで注意するべきは、このような主人公による暴露そのものが、後に見る社会的ヒエラルキーの「隠蔽」という傾向に反するものとして、何がしかスキャンダラスで後味の悪い印象を残すということです。この「いやらしさ」が本小説の魅力であり、その文学性の中核的要素の一つでしょう。

 それにしても激しい嫉妬と憎悪とよりマイルドな劣等感や引け目との差異はどこで生まれてくるのでしょうか。私が仮説として提起しておきたいのは、それが各人にとって努力によって挽回しうると考えられているかどうかと相関しているのではないかということです。

 ティスランはまだパートナーを得ようと努力していました。そして主人公はその不可能性を突きつけることで、ティスランに殺意に至るような嫉妬と憎悪を呼び起こすことができたのです。本作において劣等感がティスランという男性に、嫉妬と憎悪がブリジットという女性に配分されていたことは、ひょっとすると容姿という通常変更が難しいものの恋愛関係における比重が女性においてより大きいから、あるいは少なくともそう考えられることが多いからかもしれません。

2-3-2、謙遜、そして社会的ヒエラルキーの隠蔽

 さて、このような弱者の側の反応に対応するのが、強者における「謙遜」でしょう。なぜわざわざ自分を低めるようなことを言うのでしょうか。それは弱者の反感を買わないようにするためであり、あるいは引け目を感じさせないことによって人間関係を円滑にするためでしょう。

 「謙遜」があること、それは本質的に目に見えないものである「社会的ヒエラルキー」がそこに存在することの最も見やすい証拠の一つではないでしょうか。

 「謙遜」は、謙遜する本人がその謙遜することについて社会的なヒエラルキーを内面化していること、内面化していないにしても、そのようなヒエラルキーが存在していることを知っていること、そして少なくとも対面している他者はそれを内面化しているだろうと想定していること、さらにそこにおいて自分がその他者より優越していると想定していることを明らかにするように思います。

 麗しきものとみなされている「謙遜」が、これほどの汚泥の上に立っていること、その事実は私たちを少し暗い気持ちにさせるものです。

 さて、本書はこの謙遜の問題について先に登場したイケメン社員のトマソンに即して以下のように語っています。

 「私がこれまで何度か感じたことだが、例外的な美しさに恵まれた人はしばしば謙虚で、優しく、愛想が良く、気遣いが上手なのだ。彼らは友達を作ること、少なくとも男友達を作ることにおいては大きな困難にぶつかる。彼らはちょっとでも彼らの優越性を忘れさせるよう試みるための絶えざる努力を義務付けられているのである」。

 こうすることで初めて彼らは周囲との円滑な関係を築けるというわけです。もし優越感を感じ他人を見下していたとしても、それをあからさまに表明することは人間関係におけるちょっとしたスキャンダルを生み出します。よくよく考えれば、謙虚さのそのもののうちにしばしば優越感と見下しが前提されている可能性があるにしても、その「表明」がスキャンダラスであるという事実は変わりません。

 このようにスキャンダラスの種である、優越感と見下しからなる「傲慢」、あるいは優越性のあからさまな表出としての「ひけらかし」なのですが、厄介なことに、これらこそが勝者に彼らが勝者であることから自然に生じる第一の産出物であるようにも思われます。

 さて、ここで注意するべきは、これがおそらく上の「スキャンダル性」を生む理由なのですが、一定以上に教育されお行儀が良いコミュニティにあっては、劣等感も優越感も、ということは社会的ヒエラルキーそのものが隠され、あたかもそんなものが存在しないかのように人間関係は進んでいくし、そうであるべきだと考えられていることです。

 社会的ヒエラルキーから距離を取りうることそのものに何がしかの道徳的(?)価値が与えられているのです。実際、私たちは他者がこの種のわかりやすい社会的ヒエラルキーに捉えらえられていることに気づくとがっかりすることがあります。おそらく、この社会的ヒエラルキーから距離を取る道徳的能力には「名前はまだない」がないのですが。

 そして、こういった事態こそが、劣等感を表明する自虐が(うまくネタにできないと)しばしば対話相手をびっくりさせたり反応に困らせたりし、優越感の表明が敵意と道徳的批判を呼び起こし、他者の劣等感の指摘のみならず他者の優越感への指摘もしばしば他者への攻撃である、少なくともそういう風に感受される理由ではないでしょうか。それぞれの行為の意味と効果についてはより詳細な検討が必要であるにしても。

2-3-4、嘲笑と説教、撤退と価値転換

 さて、いま見たようなお行儀のいいコミュニティならいざ知らず、そうでないところでは社会的ヒエラルキーは強者から弱者に対する「安定した」嘲笑、つまり、嘲笑し返されることの決してない一方的な嘲笑を可能にします。

 かくしてティスランはやけっぱちで強引に誘った女の子から後で友人と共に笑われることになるし(2-10)、老いた農夫の結婚は若者に馬鹿にされることになるのです(2-3)。主人公は太って醜いブリジットを連れて歩くのには「優れた道徳的力」が必要だとすら述べています(2-7)。

 社会的ヒエラルキーにおいて生じる嘲笑を跳ね返すには「優れた道徳的力」が必要だという言葉はなかなかに含蓄があります。これは先に「名前はまだない」道徳的能力の上位版と考えることができるでしょう。社会的ヒエラルキーがないかのように振る舞うのみならず、それに明確に逆行する能力というわけです。

 さて、このようなあからさまな見下しよりも少々上品なのが強者が弱者に対して行使しうる「説教」でしょう。本書に関して言えば、「女を買う」問題について主人公がティスランを非難したのに対してティスランが弁明したこと(2-9)、あるいはまた主人公が音楽が女を引っ掛ける上で持つ機能を論じてティスランの注意を引きつけたこと(2-8)に、この「説教」という問題に相通じる現象を読み取ることができるかもしれません。そこで弱者の連帯として成立した二人の関係の中で相対的な強者と弱者という関係が再構築されているのです。

 このような強者の側の振る舞いと対応する弱者の側の振る舞いとして撤退と価値転換を挙げることができるのではないでしょうか。このような「嘲笑」や「説教」を避けようとするとき人はしばしば撤退を選択するように思われます。

 社会的に低く評価される職業につくぐらいならニートにとどまり別の可能性も残した中吊り状態のままでいる方が良い、社会的に低く評価される相手と付き合うなら独り身でいる方が良い、そういった特定のものを選択することは明確な敗北宣言であるかのように感受されるわけです。

 明確に何かを選ぶことをしないという選択肢があるときには、そういった発想が可能でしょう。この種の戦略でもっと強力なもの、あるいはこの種の戦略全般を背景で下支えしているものが、ニーチェがルサンチマンと呼んだものにどこかしら似ている価値転換、具体的には欲望の否定です。

 お金は欲しくない、恋愛には興味がない、こう言えば社会的ヒエラルキーの外部に立つことができるのです。少なくとも、立っているかのように他者と自分に見せかけることができるのです。このあたりに関しては「外部のなさ」「出口のなさ」を強調する本書が例を与えられないのも当然かもしれません。それにしても、この出口のない感覚は、それこそフランスに「二次元」がないからではないかと半ば本気で思うのでした。

 いささか「一般的」「社会学的」に語り過ぎたでしょうか。

3、結論

 長くなりました。結論ではたった一つのことを述べるにとどめましょう。主人公による「セクシュアリティはひとつの社会的ヒエラルキーのシステムである」というテーゼと「愛の不可能性」をめぐる議論をどの程度認めるかということです。本書の主張をまとめてみれば以下のようにいえるでしょう。

 性の自由化とヒエラルキー化は以下のような過程で、一人の相手との長期的な関係において徐々に育まれ豊かになりゆく思いとしての愛を不可能にする。一つには、一般に、どんな時も別の相手、より良き相手という発想が抜けないために一人の相手に長期的にコミットして「愛」を育てることができない。

 もう一つには、相対的弱者の層においては相手との関係がしばしば自分にとっても他人にとっても妥協として経験される。それは関係の構築を足止めするし、また関係が構築されたとしても、そこにはなにがしかの「嘘」が感じられ、それが「愛」へと発展していくことの妨げとなる。そして「愛」が不可能である限りで、老いは耐えられないものであり、生はまったき苦しみの経験となる…。

 さて、私としては傾向として以上の議論は正しいのではないかと思います。ただ、やはり残っている可能性については、しっかりと測定してみたいとは思うのですが、如何せん…。

 そしてまた、ウェルベックが続く作品群で描き出そうとしている答え、つまり、「セクシュアリティの彼方」という方向性についても、ウェルベックの続く作品群を読む中で、検討していきたいと思います。(了 初稿は2015年3月)

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