なぜ教科書や参考書の解説は十分ではないのか?

 この前、運営している自学自習型の学習塾の生徒が、参考書や教科書を読んでも、高校物理の「うなり」の公式の意味がうまく理解できないと質問をしてきました。

 そのとき、私も一緒に参考書や教科書を見ながら考えて、どうにかその生徒に「うなり」とその「公式」の意味を理解させられる説明を思いつきました。

 今回は、その際に考えた「なぜ教科書や参考書の説明は十分ではないことが多いのか?」という問題について書いてみたいと思います。

教科書や参考書に「あまり書かれていないこと」とは?

 今回、その生徒に「うなり」を納得させるにあたって、教科書や参考書に書かれていないことを私なりに考えて、それを前置きとして伝え、説明を始めました。その「書かれていないこと」とはなんでしょうか。

 これは、教科書や参考書の説明がときに十分でなく感じられることの大きな理由の一つだと思うのですが、多くの場合、教科書や参考書では、そこで扱っている事項につき、「それが何であるか」は述べられていても、「それが何でないか」、そして「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」は書かれていないのです。

それが教科書や参考書にあまり書かれないのはなぜか?

 もちろん、教科書や参考書の役割は「それが何であるか」の説明までだとも言えましょう。「それが何でないか」「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」という問題は、受け手の側で、教師の手を借りることも含めて、広い意味で自力で解決してもらうしかないというのも、妥当な立場でしょう。

 というのも、「それが何であるか」というのは「それ」に限定された問題なのに対して、「それが何でないか」「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」というのは、ある意味で、「それ以外の全て」にわたりうる無限定の問題で、受け手がどう想像し考えるのかに応じて無限に広がりうるからです。

 簡単な例で説明すれば、「りんごは何であるか」という問いには、例えば、「りんごは赤い果物です」などと答えられますが、「りんごは何ではないか」という問いに対する答え方は無数です。

 そして「それが何であるか」はちゃんと書いてあるのだから、そこから自分で敷衍して考えていけば、「それが何ではないか」「他のものとどう同じでどう違うか」はすべては明確になるはずだというのも、正論です。

 とはいえ、やはり典型的な勘違いというものは存在するので、それに関して詳しく説明をしておいてくれれば、もっと自学自習がしやすくなるのになと思います。

教師の存在価値はどこにあるのか?

 でも、もう少し考えてみると、うちのような自学自習中心の学習塾がそれなりに価値を持っているのは、「それが何でないか」「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」を書きつくすことが原理的に不可能であり、また多くの学生にとって、「それが何であるか」について書かれたことから、「それが何でないか」「それが別の場所で扱われている事項とどう同じでどう違うのか」について自分で正しい答えを作り出していくということが極めて困難だからだというのも、否定し得ない事実です。

 「それが何であるか」についての通り一遍の説明を行うことにではなく、生徒それぞれの誤解、勘違い、混同の種類を見分け、それを正しい理解に修正するために適切な説明を用意すること、そこにこそ、その事柄について深く理解している人間、つまり、教師というものの存在意義があるように思うのです。

 「うなり」という具体的な事例について、このような問題意識を踏まえつつ、どのような説明を行ったのかということは、ページを改めて書いていきたいと思います。

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