文章を読むとはどういうことか、「解釈学的循環」を出発点に

 文章を読むとはどういうことなのでしょうか?文章を読むという行為は非常に日常的なもので、私たちの大半は何らかの程度でこの活動に関わっているはずですが、改めてこのように問われると答えに窮する場合が多いのではないかと思います。

 そして、そのような自覚のなさはどうでもいいことはありません。実際、多くの場合、ある行為に関する自覚的な把握の欠如は、その行為の技術的な拙さと密接に連関しています。「文章を読むとはどういうことか」、この問いにしっかり答えられない限りにおいて、私たちは文章を読むことにおいて拙い、そういえるかもしれないのです。

 私は哲学徒として、文章、あるいは「テクストを読む」ということに比較的多くの時間を費やしてきましたし、いわゆる「難解な文章」ともそれなりに格闘してきたので、テクストを読むことに関しては、それなりの自負も持っています。

 今回は、そんな私の観点から、「文章を読むとはどういうことか」という問いに答え、そして、そこからして、文章を読む上で必須の技法、あるいは態度といったものの一端を示してみたいと思います。本稿は、まだまだ荒い素描程度のものであり、今後とも「文章を読む」シリーズとして内容を深め、表現を洗練していくつもりです。

「解釈学的循環」について

 文章を読むこと、あるいは、これをいささか堅苦しく表現して「テクストを読む」ことに関する研究として、哲学の世界には「解釈学」というものがあります。

 私自身、この思考の伝統にはさほど詳しくないので、ここでは深入りはしませんが、その初期の代表者であるヴィルヘルム・ディルタイが提起したという解釈学の根本的な問題、すなわち「解釈学的循環」は、やはり「テクストを読む」ということの困難を考える上で、出発点にするに足る根本性を備えています。

 では、この「解釈学的循環」とは何でしょう。それは「全体の理解は部分の理解に依存し、部分の理解は全体の理解に依存する」という問題です。文章全体を理解するには、当然ながら、文章の部分部分が分かっていなければならない、しかし他方で、文章の部分部分を正しく理解するには、文章全体が分かっていなければならない。でも、文章全体を分かるためには…。

 ここには「卵が先か、鶏が先か」という問題に似た循環構造があるようなのです。卵があるには、それを産む鶏がいなければならない。しかし、鶏がいるためには、まずその鶏自身が卵から生まれなければならない…。

 しかし、卵と鶏の先後問題がおそらくは本当に難問であるのに対して、私が考えるに、「解釈学的循環」はそのような難問ではありません。もちろん、絶対的に正確な理解の可能性という問題として考えるなら、「解釈学的循環」は、それを不可能にする躓きの石かもしれませんが、「そこそこ正しい理解」という水準で言えば、そうではない。

 というのも、実際、私たちはそれなりに文章を正しく理解していますから。そこそこ正しい文章理解自体が不可能であるとすれば、私たちが日常的に会話すること、学校で授業などというものが展開され、それについてテストが行われること、本が書かれ、読まれること、そういった私たちにとってありきたりの諸行為さえ、ありそうもないものになってしまうはずです。

 では、どのようにして、この「循環」の困難は、日々、それなりに乗り越えられており、また、首尾よく乗り越えられうるのでしょうか。次節では、その鍵として「仮説検証プロセス」として読解を構想することを試みてみましょう。

読解を「仮説検証プロセス」として構想する

 私なりの「解釈学的循環」の乗り越え方、あるいは、それが日々乗り越えられているあり方の説明は、「仮説検証プロセス」として読解を把握することによって果たされます。

 「解釈学的循環」において、あたかも「部分」と「全体」が、どちらが先とか後とかといったこともなく、お互いにまったく同じ立場を持っており、そういうものとして相互に支えあっているかのように言われていますが、それは明らかに行き過ぎです。

 というのも、非常に素朴な話ではありますが、私たちが文章に触れるとき、まずもって立ち現れてくるのは「部分」であり、決して「全体」ではなく、その意味で「部分」こそが決定的に先行しており、それのみを私たちは出発点として採用できるからです。

 その意味で、「解釈学的循環」の定式化のうち、「全体の理解は部分の理解に依存する」というところは絶対的に正しいとしても、それと同じほどには「部分の理解は全体の理解に依存する」とは言えないはずです。

 私たちは、何はともあれ、まず「部分」を「全体」を前提することなしに何ほどか理解できなければならず、実際、語義と文法についての知識を用いることで、何とか理解できるわけです。

 ここで次に問題になるのは、では、部分が全体によらずに何がしかのほどは理解できるし、理解できなければならないとしても、確かに「部分の理解は全体の理解に依存する」とも言えるのであって、そこにおける「部分と全体との循環的関係」とは、正確にはどのようなものか、というものでしょう。

 ここについて私は、「全体の理解」は「部分の理解」に基づいて立てられる「仮説」という地位を持っており、引き続く「部分」によって、それが「検証」される、というか、私たちが「その仮説を検証する」という態度で次の部分に臨む、あるいは臨まなければならないのだと考えます。

 大雑把であることを承知で、このプロセスを叙述してみましょう。文章の第一文を、私たちは、全体についての理解を何も前提としないまま、語や文法の知識、そして様々な話題についての全般的な背景知識に基づいて、何とか理解します。

 そこでは、全体についての理解は何ら前提とされませんが、しかし、全体への「見通し」はすでに不可避的に存在します。つまり、「ここから話はこう展開するのではないか?」という「仮説」は存在するわけです。

 そして、ここが逆説的で「循環的」なのですが、続く部分による検証で「見通し」の妥当性が高まっていくにつれて、全体への「見通し」を基礎づけたものとして、「部分」たる一文目の理解の正当性が強化されます。「一文目はだいたいこういう意味だ、だとすると全体はこういう話になるのではないか、そして、この「見通し = 仮説」が正しい限りで、こういう全体への仮説を生み出した一文目への理解もそのままでいいのだ…」というわけです。

 こうして一文目(あるいは、一語目、一文節目、一段落目、一節目など、単位は本質的にはどれでもよい)の終わりとともに私たちは、すでに一文目という「部分」の「理解」と、そこから朧げに見通された「全体」への「仮説」を、そして「仮説」が正しい限りで一文目の理解の正しさが保証されるという循環構造を持っています。

 続く二文目(あるいは、二語目、二文節目、二段落目、二節目…)は、これらとどう関わるのでしょうか。二文目は、この「仮説」が試される場です。

 すなわち、「全体への見通し」に大きな間違いがなければ、私たちは二文目をその「見通し」を背景にしてすんなり理解することができるのですし、他方で二文目をすんなり理解できないとすれば、すでに二文目の理解の不可避の背景となっている「全体への見通し」が疑義に付され、さらに、その「全体への見通し」を支えていた「一文目という部分の理解」も疑問に付されることになるのです。

 こうして「テクストを読む」ことの全体像、それが「仮説検証プロセス」であるということの意味が見えて来ました。

 最初の部分は、全体の理解を前提せずに理解されなければならず、しかし、そこから全体への見通しが不可避的に生じます。そして、最初の部分の理解が、この見通しを支えるわけですが、逆にこの見通しの妥当性によって、最初の部分の理解もまた支えられていくという関係があります。

 この全体に関する仮説が、続く部分では検証されます。仮説が続く部分の整合的な理解を支えるとき、仮説はさしあたり正しいものとして是認され、またその部分を自らの支えとして取り込むことで、内容としてもより豊かなものとなっていきます。他方で、仮説が続く部分の理解を保証しないのならば、仮説の妥当性、そしてそれを支えていた先行する諸部分の理解の考え直しが要求されるのです。

解釈が「うまくいく」という感覚について

 かくして、うまくいった読解とは、始まり近くから精度の高い見通しが立てられ、続く諸部分がいわば「ピタッ、ピタッ、ピタッ」とハマっていくような形で、その見通しから理解され、その見通しを正当化し、さらに見通しを内容的に豊かにしていく、この連続となります。

 そこでは、文章は先に進めば進むほど読みやすくなっていきます。全体について内容豊かで信用できる見通しがすでに立っているために、部分部分の理解がスムーズに進み、それに応ずるかたちで「全体」の方もが着々とその全貌を顕していくからです。そして「全体」が最終的に満月のように現れることこそ、文章読解の目的であり、終着点となるわけです。

 これに対して、全体を意識せず、部分部分ばかりを読んでいく読み手の場合、文章は先に進めば進むほど読みにくくなっていきます。相互の関連が見えないまま、どんどんと内容が積み重なっていくので、必ずどこかで頭がパンクしてしまうのです。「全体」を正しく意識したときに、進めば進むほど頭がクリアになっていくのとは、まさに対照的です。

 あるいはまた、全体についての何らかの意識はありつつも、それを部分部分に即して「検証」するという意識が弱い場合、得てして独りよがりな読みになりがちです。テクストに即さないまま、「全体」が先取り的に把握され、その観点からテクストが拾い読みされる、頭はある意味でクリアですが、その頭が捉えているものはテクストの実相とはまるで異なってしまっているというわけです。

 そういうわけで、私たちは、テクストをまず理解するために、そしてできるだけ正しく理解するために、テクストを読むことを、「部分の理解」と「全体の理解」の間を絶えず行き来する仮説検証プロセスとして理解し、その往還過程へと、自らを関わり入らせていかなければならないと、私は思うのです。(了)

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